皆さんも、一度は学校の教科書などで大政奉還の絵を見たことがあるかもしれません。
「大きな屋敷に一人だけで座っているのが徳川慶喜」「手前側にたくさんのえらい武士たち」。
大政奉還は徳川家康以来、ずっと続いてきた江戸幕府がなくなる瞬間でもありました。
今回は大政奉還の全容、そして徳川慶喜のその後について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
大政奉還とは?
(大政奉還図 出典:Wikipedia)
大政奉還とは、江戸時代末期(慶応3年)に15代将軍の徳川慶喜が朝廷・明治天皇に政治をする権限をお返しした出来事です。
大政奉還の大政とは『政治を行う権限』、奉還とは『お返しするということ』という意味です。
ちなみに、「大政奉還をしたほうがいいよ」と慶喜に直接アドバイスしたのは土佐藩主の山内豊信でした。
大政奉還が行われた理由
(徳川慶喜 出典:Wikipedia)
大政奉還をした理由は、討幕派による武力討幕や混乱を防ぐためです。
当時、薩摩や長州は武力で幕府を倒そうとし、会津藩や桑名藩は実力を使ってでも阻止しようとしていました。
「このままでは、無秩序な内戦になってしまう」。
そう考えた慶喜は、「政治を朝廷に返しても実際に国をまとめるためには徳川家は無視できない。いずれ、徳川家にも協力要請がくるだろう。その時に、天皇のもとで徳川氏主導の政権を作ればいい」と考えたのです。
しかし、事態はそうならなかったのです。
これを知るには大政奉還の前にさかのぼらなければなりません。
大政奉還が行われた背景
(黒船来航の様子)
①強まる外圧
1853年にペリーが浦賀に来航して以来、日本は国際社会の渦に放り込まれてしまいました。
特に世界各地で植民地争いをしていたイギリスとフランスが日本でも力を競いだしました。
フランスは幕府に、イギリスは薩摩や長州などに接近します。
1858年に日米修好通商条約を結んでからは貿易面での問題も発生していました。
②混乱する幕政
日米和親条約をまとめた井伊直弼は、安政の大獄で反対派を叩き潰しにかかりました。
しかし、安政の大獄で恨みを買ったことで、井伊は桜田門外の変で暗殺されてしまいます。
これ以後、幕府の指導力は目に見えて低下しました。
③激化する尊王攘夷運動
幕末の貿易は物価の急上昇と金の海外流出をもたらしました。
庶民は生活苦。「こうなったのも、幕府が外国と貿易なんかするせいだ。今すぐ外国を追い出せ!」「日本を天皇中心の国にするんだ」といった主張が支持を得ました。
ついには、公使館の焼打ちや外国人の殺害など過激な尊王攘夷運動までおきます。
④公武合体
こうした事態に幕府は、自分たちだけで対応するのには限界があると考えました。
そのため、天皇の力を借りて事態を乗り切ろうとしました。公(天皇)と武(幕府)が協力する公武合体です。
孝明天皇の妹、和宮と14代将軍徳川家茂を結婚させてきずなを深めようとしました。
⑤禁門の変
公武合体に危機感を持ったのが尊王攘夷派の長州藩です。
1863年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は兵を京都に差し向けます。
この事件、禁門の変は長州藩と薩摩・会津・桑名藩の戦いでした。
結局、長州藩はこの戦いに敗れてしまいます。
⑥2度の長州征討と将軍家茂の死
幕府は朝敵となった長州藩を討伐。長州征討の開始です。
一度は幕府に従うと誓った長州藩でしたが、高杉晋作らが長州藩で政権をとると再び幕府に歯向かいます。
再び長州を攻撃しますが、薩摩藩が出兵を拒否するなど1度目と違ってうまくいきません。
そんな中、将軍家茂が急死。うやむやな形で第二次長州征討は幕を下ろしました。
この段階で、幕府の権威はガタ落ちとなりました。
大政奉還の実施までの流れ
(孝明天皇 出典:Wikipedia)
①孝明天皇の急死
1866年12月、孝明天皇が急死。これは、幕府にとって大打撃でした。
なぜなら、孝明天皇は積極的な公武合体派だったからです。
新たに即位した明治天皇は幼く、朝廷内ではだれが主導権をとるかの争いが活発になりました。
②討幕の密勅
1867年10月13日、薩摩藩主と長州藩主に徳川慶喜・会津・桑名を討伐する秘密の命令(討幕の密勅)が下されました。
この密勅は岩倉具視などが中心になって出させたとされています。
こうして慶喜は追い詰められてしまいました。
③大政奉還の実施
討幕の密勅が出された日の翌日、徳川慶喜は突如、朝廷に対して政権を返上すると申し出ました。
もともと、大政奉還を慶喜に提案していたのは土佐藩でした。
土佐藩前藩主の山内豊信は幕府も加えた雄藩連合で日本の政治を行おうと考えていました。
武力による倒幕を避け、徳川家の力を維持するには大政奉還して幕府をなくして「討幕する相手の幕府はもう存在しない」としたほうが攻撃をかわせると慶喜も考えたのでしょう。
大政奉還のその後
①王政復古の大号令
討幕派はあきらめません。
慶喜をなんとしても追い詰めるために王政復古の大号令を出します。
この大号令は「幕府や摂政関白は廃止。これからは天皇が自分で政治をやる!」との宣言です。
慶喜がナンバー2として雄藩連合をつくるシナリオを阻止しようとしたのです。
②小御所会議
王政復古の大号令が出された日の夜、宮中で慶喜の運命を決める会議が行われました。
これを小御所会議といいます。
会議では悪魔で慶喜を追い詰めようという岩倉具視と雄藩連合を目指す山内豊信が激論を交わします。
山内豊信が「慶喜を会議に出席させよ。幼い天皇をつかって慶喜を排除するのは陰険だ!」というと岩倉具視は「これは天皇陛下自らのお考えです。」と一歩も引きません。
激論を制したのは岩倉です。
会議後、慶喜に対して辞官納地(内大臣の位を返上し、徳川家の領地を朝廷に差し出せ)を命じました。
③戊辰戦争
小御所会議に納得がいかなかった旧幕臣らは、鳥羽伏見で新政府軍と戦います。
これが良く耳にする戊辰戦争です。
こうして戦争は始まり、戦いはおよそ1年に及びましたが、最終的には新政府が勝利します。
結局、大政奉還による雄藩連合実現はできなかったのです。
徳川慶喜のその後
(徳川慶喜 出典:Wikipedia)
戊辰戦争後、徳川家の家督は亀之助(徳川家達)に譲り、自分自身は静岡に隠居しました。
隠居後は狩猟や弓術・カメラ・絵画・サイクリングなどの趣味に没頭したそうです。
立場上、政治的なことには口出ししにくかったせいかもしれませんね。
まとめ
✔ 大政奉還とは将軍徳川慶喜が天皇に政治の実権を返上したこと。
✔ 外圧や尊王攘夷運動の高まりで幕末の日本は不安定だった。
✔ 公武合体運動が孝明天皇の死で行きづまり、討幕の機運が高まった。
✔ 討幕の先手を打つため大政奉還を実行。
✔ しかし、王政復古の大号令やその夜の小御所会議で慶喜は追い詰められた。
✔ 追い詰められた旧幕府側は武力に訴え戊辰戦争を起こしたが敗れた。