明治六年の征韓論は日本全国に大きな衝撃を与えました。

 

それからわずか1年後、日本は初の海外出兵である台湾出兵に踏み切ります。

 

征韓論では否定したはずの海外出兵を、なぜ翌年に行ったのでしょう?

 

今回は、台湾出兵がなぜ起きたのか?台湾出兵の目的は何なのか?出兵の結果や賠償金はどうなったかなどについて、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

台湾出兵とは?

(台湾出兵 出典:Wikipedia

 

 

台湾出兵とは、1874年(明治7年)に明治政府が行った初の海外派兵のことです。

 

陸軍中将西郷従道の指揮で日本軍が台湾に出兵した出来事です。

 

台湾出兵の目的

 

 

出兵の目的は二つあります。

 

一つ目は、琉球王国を日本の領土と認めさせる足掛かりにしようというもの。

 

もう一つは国内の不満をそらすことです。

 

征韓論を否定したことで、武士たちの間での不満が高まっていました。不満のはけ口として「手ごろな相手」である台湾に出兵しようと考えられたのです。

 

 

台湾出兵が行われた背景

(台湾出兵時の日本兵 出典:Wikipedia

①日本周辺の国境問題「あいまいだった国境を決めないと!」

江戸時代と明治時代の大きな違いは、国境線を定めることでした。

 

その当時、欧米列強は植民地獲得競争をおこない、世界各地に国境線を引いていました。

 

日本も、国境線を引かなければどんどん周辺を外国に取られてしまいます。

 

江戸時代にあいまいだった北海道や小笠原諸島・琉球王国などの南西諸島も国境線を引かなければならなくなりました。

 

②琉球王国の扱い「琉球は日本のもの?それとも中国のもの?」

江戸時代、琉球王国は日本と清国の両方に属していました。

 

琉球を支配していた薩摩藩は清国との貿易を行うため、琉球王国の方針を認めていました。

 

しかし、明治になると琉球王国は日本か清国のどちらかに所属することを迫られます。

 

台湾出兵の時は、どちらでもない「両属(中途半端な状態)」が続いていました

 

③強化された軍事力「徴兵令で準備OK」

1873年、徴兵令が公布され、日本でも近代的な陸軍が作られ始めます。

 

 

この法令を使うことで、海外への出兵が可能となりました。

 

台湾出兵のきっかけ

琉球漁民殺害事件「台湾出兵のきっかけ」

1871年、台湾に漂着した宮古島の島民が台湾の原住民に殺害されました。

 

日本政府は宮古島を含む琉球王国を日本の領土だと考えています。

 

「琉球人である宮古島の人々は日本人である。台湾を支配する清国は、賠償金を支払え!」と日本政府は要求しました。

 

②ちなみに台湾ってどこの領土?清国の対応

清国は「台湾の人々は清国の支配が及ばない野蛮人だ。だから、清国にはどうしようもない」と返答。

 

責任逃れをはかりました。

 

この主張に対して琉球を管轄する鹿児島県や鹿児島出身の士族たちは、台湾への出兵を主張しました。

 

③日本の主張

日本は、一向に話し合いに応じない清国に対して「清国の支配が及んでいないなら、日本が勝手に台湾の野蛮人をやっつけてもいいよね?」と主張。

 

台湾出兵の準備が進められました。

 

征韓論でくすぶる士族の不満、特に大久保の地元である薩摩での不満を鎮めるいい機会だと考えたのです。

 

④国内の反対意見

出兵を準備していた大久保利通らの政府に対して、木戸孝允が猛反対します。

 

「国内政治優先だといって征韓論を退けたのに、翌年に台湾に出兵するのはおかしい!」というのです。

 

木戸は自説を曲げず、ついに政府を去って下野しました。

 

これで出兵が中止になったかに見えました。

 

⑤台湾出兵

(西郷従道 出典:Wikipedia

 

 

いったん中止になった計画は、反対派の木戸が政府を去ったことでかえって進めやすくなりました。

 

1874年、出兵を命じられた西郷従道(西郷隆盛の弟)は3600人を率いて長崎を出港。台湾南部に上陸しました。

 

そして上陸後2週間程度で殺害事件があった現場周辺を制圧します

 

ところが、西郷軍はマラリアに苦しめられます。

 

戦死者12名に対してマラリアなどでの病死者は561名と実に病死者が戦死者の46倍にもなりました。

 

⑥難航する外交交渉

日本の出兵に清国はもちろん東アジアで貿易を盛んに行っていたイギリス、特に駐日公使のパークスは激しく反発しました。

 

1874年の8月に北京入りした大久保も交渉に苦労しました。

 

清国側の責任者となった恭親王が全く交渉に応じようとしなかったからです。

 

大久保や清国の実力者である李鴻章やイギリス公使ウェードに仲介を依頼しました。

 

⑦イギリスの仲立ち「これ以上、東アジアが乱れると貿易に影響が出る…」

イギリスとしては東アジアでの混乱は望んでいませんでした。

 

そこで、イギリス公使ウェードが間に入って日清両国の話し合いを進めます。

 

李鴻章の融和的な態度などもあって条約が結ばれました。

 

台湾出兵後に結ばれた条約の内容

 

結ばれた条約

(1)清国は日本の出兵を義挙(正義の出兵)と認める

(2)日本は1874年の1220日までに台湾から引き上げる

(3)賠償金は支払わないが、見舞金を支払う

 

賠償という言葉を使うと清国が負けたことになり、メンツがつぶれてしまうため、見舞金という言葉が使われました。

 

台湾出兵の影響

①琉球王国は日本と清のどちらのもの?

清国が琉球王国の漁民を日本人と認めたことで琉球は日本のものと決着がつくかに見えましたが、そう簡単にいきません。

 

明治政府は琉球に清国との関係を断ち切るよう命じますが、琉球から「それだけは勘弁」と泣きつかれます。

 

結局、琉球が日本の領土として確定するのは琉球処分後になります。

 

 

②三菱の躍進

台湾出兵は海外派兵だったので、軍隊を運ぶ船が必要でした。

 

政府は、郵便蒸気船会社に輸送を依頼しますが、軍の輸送で忙しくなるとライバルの三菱に客を奪われると考え、政府の依頼を拒否します。

 

三菱の岩崎弥太郎はチャンスと考え、積極的に台湾出兵に船を出しました

 

その結果、三菱は政府の保護を受けられるようになりますます発展しました。

 

まとめ

 台湾出兵とは、1874年に明治政府が行った初の海外派兵のこと。

 出兵は琉球漁民殺害事件がきっかけで行なわれた

 清国は「自国の支配が及ばない」と話し合いを拒否しため、日本は台湾に出兵し、漁民を殺害した部族などを攻撃した。

 清国は台湾出兵を「義挙」とみとめ、賠償金にあたる見舞金を支払う。

 台湾出兵に協力した三菱は財閥発展の基礎を作った。

 

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【読者の感想】

1874(明治4)年、日本は始めて海外に出兵する−世に言う「台湾出兵」である。
本書は、「なぜ、日本は出兵を強行したのか」という著者の疑問をもとに事件を論じたものである。

事件の一連の流れ(宮古島島民遭難事件から台湾撤兵まで)を、対清・対朝鮮・対露などの国際関係まで踏まえながらコンパクト(全196頁)にまとめた点は、入門書として評価できよう。しかし、後半の内容は著者の主張(西郷隆盛は征韓論者ではなかった)を基に展開しているが、この主張には多くの批判が出されている。それらに一切言及しないで論立てする姿勢は如何なものかと感じる(また、先行研究の整理も不十分に感じられる)。

評価をまとめると、事件の一連の流れを幅広くコンパクトにまとめたという点で、事件を知る際の入門書となるだろう。しかし、上記の点から、本書の結論をそのまま鵜呑みにするのは危険である。

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