鎌倉幕府の政治のシステムである御恩と奉公。

 

江戸幕府の政治のシステムである幕藩体制。

 

この2つは似ていないように見えて実は同じ封建体制と呼ばれる体制に基づいた政治のシステムだったんです。

 

今回はそんな『封建体制(ほうけんせいど)』について解説していきたいと思います。

 

封建制度とは?

 

封建制度とは、王様などの領主が家臣の諸侯に対して領地を与えて統治をさせた今でいうところの地方分権みたいな政治体制のことです。

 

元々は古代中国の殷や周などがこの制度を導入しており、それが時代が流れ鎌倉時代から明治維新までの日本の基本的な体制となりました。

 

外国などの封建制度

①中国の封建制度

古代中国の王朝である殷。この国は今のような王国ではなく、有力な諸侯が周りの領主をまとめたようないわゆる連合組織みたいなものでした。

 

そして、その殷が滅んでの時代に入るとその連合組織の関係をより強いものにするために周の王様とその諸侯との間に婚姻関係を結ばせます。

 

これがいわゆる封建制度の始まりとなっており、この先周では周の王様を中心として各地に諸侯が領主として土地を治める制度が確立されました。

 

しかし、その関係が弱まり、春秋戦国時代に入るとこの封建制度は徐々に崩壊。秦の時代に入ると郡県制という中央集権的な政治体制を導入します。

 

これから先中国王朝では皇帝中心の中央集権国家が統治していくことになりました。

 

②ヨーロッパでの封建制度

日本や中国などで封建制度が行われていましたが、この封建制は中世ヨーロッパの頃にも行われていました。

 

ヨーロッパの場合は王様が貴族などに対して領地を与える代わりに主従を求めるという鎌倉時代の御恩と奉公みたいな関係で結ばれており、さらに領主はその土地に住んでいた農民にも同じような主従関係を結ばせるなどの二重の関係を持っていました。

 

しかし、15世紀に入り三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約が結ばれたことによって、各地で王様に権力を集中させる絶対王政と呼ばれる時代が始まり、封建制度は徐々に崩壊していきました。

 

日本の封建制度の歴史(はじまり)

 

さてこれまでは中国やヨーロッパなどの外国の場合の封建制度を見ていきましたが、そろそろ本題である日本の場合での封建制度について見ていきましょう。

 

日本で封建制度が始まったのは平安時代後期の頃。武士達が政治的権力を握り始めた時からと言われています。

 

次は日本ではどのようにして封建制度が行われていったのかを見ていきましょう。

 

①鎌倉時代の封建制度

日本史上初めての武士の政権であった鎌倉時代。

 

この時代では幕府の将軍や執権と家臣である御家人の間で御恩と奉公の関係が結ばれていました。

 

御恩と奉公という言葉は学校などで習ったことがある人が多いと思いますが、この御恩と奉公という関係は御家人が幕府を警護する大番役や元寇が起こった後なら異国警護番役などの軍事的な支援を行い、幕府に対して経済的な支援を行うなどをして幕府を支えていました。

 

一方で御恩と呼ばれるものは奉公をした御家人に対してその土地の所有を保護したり、新しい領地を与えるなど報酬を与えていました。

 

この御恩と奉公が日本における封建制度の基本的な内容となっていくのですが、鎌倉時代における御恩と奉公の場合は元寇によって御家人に対して御恩を送るための土地がなくなってしまったことによって崩壊していくことになります。

 

 

②室町時代の封建制度

元寇によって鎌倉幕府が崩壊した後、世の中では室町幕府が成立しましたが、この幕府の場合はこれまでの将軍と御家人から将軍と守護大名と呼ばれる全国の統治を任された大名との関係となっていきます。

 

しかし、この室町幕府の関係の封建制度は守護大名が各地の統治を任されており、さらに強大な権力を握っていたため度々将軍よりも守護大名の方が強くなってしまいその関係はかなりもろいものでした。

 

そんな幕府と守護大名の関係だったのですが、この関係が崩壊したのが嘉吉の乱と応仁の乱だったと思います。

 

 

嘉吉の乱というのは簡単にいうと有力守護大名であった赤松家が第6代将軍である足利義教を暗殺した事件のことです。

 

この事件によって幕府は9歳の足利義勝を将軍にせざるおえない状況となってしまい、幕府の権威が一気に低下してしまいました。

 

次に応仁の乱なんですが、これは説明不要でもいいぐらい有名ですね。

 

第8代将軍足利義政が跡継ぎを決めずにいた所に守護大名の跡継ぎ争いも介入して日本全国が内戦状態となった戦国時代のきっかけである内乱ですが、これによって幕府の権威は失墜

 

将軍よりも守護大名の方が権力がある状況へと落ちぶれてしまいました。

 

③江戸時代の封建制度

さて、江戸時代に入ると日本では新しく江戸幕府と大名の間で幕藩体制と呼ばれる関係が結ばれました。

 

この幕藩体制という体制は日本各地に大名が治める藩と呼ばれる半独立的な領地があり、それを武士のトップである江戸幕府が統治するという今でいうところのアメリカ合衆国と同じような政治体制だったのです。

 

しかし、これだけでは大名が幕府に対して謀反を起こすかもしれません。

 

そこで江戸幕府はこれまでの幕府とは違い、武家諸法度と呼ばれる大名専用の法律を発令してそれに違反した大名は改易するという厳格な体制を行い、さらに大名を親藩・譜代・外様に分けて外様大名は幕府の運営には絶対に参加させないなどの徹底的な排斥を行なって幕府の体制を保っていました。

 

そのため、江戸幕府はこのような封建制度でありながら265年の間崩壊することは無かったのです。

 

日本における封建制度の崩壊

①明治新政府の憂鬱

江戸幕府が滅亡して日本では薩摩藩と長州藩を中心とした明治新政府が発足していきましたが、この明治新政府にはとある悩みがありました。

 

それこそが鎌倉時代が始まってから700年続いた日本における封建制度についてだったのです。

 

日本では1853年にペリーが来航してから徐々に近代化していきましたが、明治新政府はこの近代化を促進するためにはこれまでのような藩と幕府の封建制度ではなく、天皇や明治新政府を中心とした新しい中央集権国家を樹立しなければならないと考えていたのです。

 

 

②版籍奉還と廃藩置県

こうして日本を中央集権国家にすることを決意した明治新政府は明治2年(1869年)に版籍奉還を実施。

 

 

版籍奉還というものは簡単に言えば日本中にいた藩主に対して天皇に版(土地)と籍(人)を返還することを命令したことであり、これによって藩の権力は一気に弱まりました。

 

さらに明治新政府はとどめと言わんばかりに明治4年(1873年)に廃藩置県を実施します。

 

 

これによって藩が廃止され、日本の全ての土地が新政府のものとなり日本における封建制度は完全に崩壊しました。

 

まとめ

 封建制度とは王様などの領主が家臣に領土を与えて統治させたシステムのこと。

 封建制度は主に中世ヨーロッパや中国の殷や周の時代で使用された。

 日本における代表的な封建制度とは鎌倉幕府の御恩と奉公と江戸幕府の幕藩体制。

 日本における封建制度は版籍奉還と廃藩置県によって完全に崩壊した。

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