いろんな歴史上の出来事はとある人がある発言したことによって動くものです。

 

今回解説する小御所会議もこのような出来事の一つでした。

 

この小御所会議によって徳川慶喜は追い詰められ、日本の歴史は大きく動くことになりました。

 

今回は、そんな日本の歴史の転換点の一つである『小御所会議』についてわかりやすく解説していきます。

 

小御所会議とは

(小御所会議が開かれた当時の小御所 出典:Wikipedia

 

 

小御所会議とは1868年(慶応4年)に行われた京都の小御所という場所で行われた会議です。

 

この会議によって徳川慶喜の官職の辞職と領地削減などの辞官納地が決められました。

 

そして、この会議によって徳川慶喜と薩長両藩との分裂は決定的となり、日本は戊辰戦争に突っ走っていくことになります。

 

小御所会議が行われるまでの経緯

(大政奉還 出典:Wikipedia

①大政奉還と慶喜の思惑

1867年に徳川慶喜は大政奉還をして政権を天皇に返しました。

 

しかし、大政奉還にはちょっとした慶喜の策略があって、この当時幕府は倒幕の密勅を出されていてこのままでは幕府はもちろんのこと徳川家も潰されてしまうピンチな状態でした。

 

そこで慶喜はとりあえず幕府を朝廷に返して倒幕の密勅を無効にした上で徳川家中心の諸藩連合を作ってなんだかんだで徳川家が政治を動かしていこうとしました。

 

ちなみにこの大政奉還を進言したのは山内豊信という人で、この人は徳川家をなんとか守りたいと思っている人でした。

 

この大政奉還は倒幕をしようとウキウキしていた薩長に肩透かしを喰らわせることに成功して一時は慶喜は優勢に回りました。

 

 

②王政復古の大号令

大政奉還のお陰でなんとかピンチを脱出することができた慶喜は朝廷に願ってなんとか徳川家の領地と官職を保証させることに成功します。

 

しかし、これを見て面白くないのは長州藩と薩摩藩。『このままでは徳川家の世の中のままじゃねーか!』と思った両藩は倒幕派の公家岩倉具視と共に王政復古の大号令を発表します。

 

王政復古の大号令は幕府の廃止などを決めたもので、わかりやすくすると『これからは武家中心の政治じゃなく、天皇中心の政治をやっていくぜ!』ということです。

 

この王政復古の大号令は慶喜が理想としていた徳川家中心の諸藩が連合して政治をすることをさせないためのものでした。

 

 

小御所会議の開催【目的と内容】

(小御所会議の論争 出典:明治神宮

①会議の開催とメンバー

薩摩藩と長州藩は王政復古の大号令を出した後、京都の小御所という場所で会議を開きました。

 

この会議の目的は徳川慶喜の処遇を決めたりするとても重要な内容です。

 

会議に参加した人たちはこちら

参加者

○明治天皇

○総裁

⇒有栖川宮熾仁親王 (14代将軍家茂の妻和宮の元許嫁)

○議定

⇒岩倉具視を始めとした公家

⇒徳川慶勝(尾張藩主)

⇒松平春嶽(越前藩主)

⇒山内豊信(土佐藩主)

⇒浅野茂勲(広島藩主)

⇒島津茂久(薩摩藩主)

○藩士

⇒西郷隆盛(薩摩藩士)

⇒大久保利通(薩摩藩士)

⇒後藤象二郎(土佐藩士)

 

このメンバーをみると幕末の主要人物もちらほら見えますね。

 

ちなみに、無位無官(何にも官位を持っていない人)の人が天皇がいる会議に参加するのはこれが初めてのことでした。

 

②会議の経過

もちろん岩倉具視の理想はなんとかして徳川家を潰し、天皇中心の政治を行いたいでしたがそんな理想はあまりうまくはいきません。

 

そもそもこの当時日本では公武合体をして藩が連合して新政府を作るのか、それとも天皇中心の新政府を作るのかの二つに割れていました。

 

特に山内豊信は岩倉具視に真っ向から対立して会議は混迷していきます。

 

豊信はこの会議に慶喜が参加していないことに対して『この会議に慶喜公を呼ばないのはなんでなのだ!ここに集まっている人はまさか明治天皇がまだ若いことを利用して天下を取ろうと画策しているのではないか!?』と発言します。

 

それに対して岩倉具視は『天皇が若いからといってあの人はとても賢くリーダーシップがある人だ!なんと無礼なこと言うか!』と反論します。

 

もちろん会議がこんな状態じゃ話し合いは全く進みません。

 

さらに『慶喜の釈明を聞きもしない』という主張そのものは、慶喜側の松平春獄や後藤象二郎がひきつぎ岩倉具視と激しい論争を繰り広げます。

 

もう会議とは言えないグダグダな状態となった小御所会議は、岩倉具視の提案を受けて一時休憩となります。

 

しかし、岩倉具視は休憩の時に恐ろしいことに『非常手段をとってでも何とかする』という物騒な発言をして、さらに西郷隆盛はいきなり短刀を突き出して『最悪短刀一本でことを片付けます』という流れになり会議はビートダウンします。

 

これに驚いた豊信を始め慶喜側はもうどうすることもできなくなり、会議は岩倉具視の言い分を受け入れることとなりました。

 

③会議の結果

会議の結果慶喜は朝廷に幕府の領地の半分を返還して、さらに慶喜の官位である内大臣の辞職が決定しました。

 

このことを辞官納地といいます。

 

小御所会議のその後

①幕府側の対応

小御所会議が終わった後、徳川慶勝と松平春嶽は大坂城にいた慶喜に会議の結果を伝えにいきます。

 

もちろん慶喜は自分がいない間に勝手にいろいろ決められていた会議の内容にビックリして抗議します。

 

さらに会議に参加していた山内豊信と松平春嶽はなんだかんだで辞官納地のことを無かったことにしていき、事を収めようとします。

 

さらに慶喜は欧米の列強諸国に対してこれからも日本は徳川家を中心にやっていくことをアピールして列強からの支持を得ました。

 

②薩長側の対応

薩長側のあまりにも無理矢理な慶喜に対する扱いは諸藩からのブーイングを浴びて窮地に追いやられます。

 

窮地からなんとか脱出したいと思っていた薩摩藩は江戸周辺も燃やし徳川家を挑発してわざと戦争に持ち込ませようとします。

 

この挑発はなんとかうまくいき慶喜はもくろみ通り戦争に乗っかってくれました。

 

こうして戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いが始まることになるのです。

 

 

まとめ

・小御所会議とは王政復古の大号令を出した際に行った徳川慶喜の処遇について話された会議のこと。

・この会議には岩倉具視を始じめ山内豊信や西郷隆盛・後藤象二郎なども参加した。

・この会議の結果慶喜は領地の返還と内大臣の辞職が決定された。

・この会議の結果はうやむやとされてその後戊辰戦争が始まるきっかけにもなった。




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