【元和令・寛永令・天和令の違い】わかりやすく解説!!それぞれの内容など

 

東軍の徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利すると、敗れた多くの西軍の大名を改易や減封に処します。

 

これに不満を持つ大名は多く、大坂の役で敵対する武将もいました。

 

大坂の役後、大名の統制や取り締まりが急務であった家康は真っ先に大名の居城を一つに限る一国一城令を出し、最初の武家諸法度となる元和令を出しました。

 

今回は、『元和令(げんなれい)・寛永令(かんえいれい)・天和令(てんなれい)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

元和令・寛永令・天和令とは?

 

元和令・寛永令・天和令は、幕府が諸大名を統制するために出した武家諸法度のことで、最初の元和令は1615年に出され、寛永令、天和令などで改訂が繰り返されてきました。

 

幕府は1615年の大坂夏の陣で家康にしたがわない豊臣氏を滅ぼすと、同年すかさず一国一城令をだし、さらに同年に最初の武家諸法度である元和令をだしました。

 

 

ここで政治・道徳上の訓戒を始めとする規定を定めたのが、武家諸法度の始まりです。

 

こののち、寛永令、寛文令、天和令、宝永令享保令と追加や改訂が繰り返されました。

 

元和令・寛永令・天和令の内容とその主な違い

 

武家諸法度は1615年の元和令に始まり、1635年に寛永令、1663年に寛文令、1683年に天和令、1719年に宝永令、1717年の享保令と計6度だされています。

 

①元和令

元和令は、1615年の大坂の役後に金地院崇伝(こんちいんすうでん)らに起草させた10ヶ条ともともと大名と誓紙を交わしていた3ヶ条の計13ヶ条からなります。

 

これを同年7月7日に2代将軍徳川秀忠が諸大名を伏見城に集めて、発布者は徳川秀忠として崇伝に朗読させることにより公布しました。

 

 

(徳川秀忠 出典:Wikipedia)

 

 

前半は生活や基本姿勢、犯罪者の扱いなどですが、中ほどからは以降は隣国との関係や大名が知らないうちに力をつけないようにとの対策となる内容になっています。

 

また、参勤交代はこのときは自発的なもので、豊臣秀吉に倣い制度化することになりました。

 

 

後半は大名ではなく武士の道徳や儀礼に対する内容でした。最後には人材登用についての内容もあります。

一、文武弓馬の道に励むこと

一、酒に溺れ遊びほうけてはいけない、好色と博打にのめり込むのは国を滅ぼすもと

一、法令違反者を隠してはいけない

一、反逆者や殺人者は追い出すこと

一、自分の領地に他国の者を住ませてはならない

一、隣の国で不穏な動きや同志を集める者があれば報告すること

一、城を修理するときは届け出ること、新築は禁止する

一、幕府の許可なく諸大名は婚姻関係を結んではいけない

一、参勤交代のときは節度を保つこと

一、身分相応の身なりをすること

一、身分の低いものはかごに乗ってはいけない

一、武士は倹約につとめなければならない

一、大名は政治能力のある者を登用すること

 

②寛永令

(徳川家光 出典:Wikipedia)

 

 

1635年、林羅山を起案者として3代将軍徳川家光により発布されました。

 

参勤交代の制度化や五百石積み以上の船の造船を禁止したほか、「婚姻」「衣服の等級」「倹約」についてなど儀礼や道徳について対象を明示したり令を示すなど細かく定められました。

 

代わりに元和令で定められていた「酒に溺れ…」や「法令違反者を…」「自分の領地に…」「大名は政治能力の…」といった項目は削除されました。

 

また、幕府に報告することやお伺いをたてるべき項目がより細かく設定されており、幕府の知らないところでの何らかの動きがないかと注意を払う意図が見られます。

一、文武弓馬の道を嗜むように

一、大名小名に参勤交代を定める、毎年4月に江戸に参勤し負担にならない人数とする

一、城の新築は禁止、堀・土塁・石塁の破損は指示を仰ぐ、櫓・塀・門は元通り修理する

一、江戸や他藩での事件では動いてはならない、国元を動かず幕府の命令を待つ

一、どこかで刑罰が執行されても担当者以外は動かぬこと

一、企てごとをして人を集めて誓約を交わすことを禁止する

一、藩主や領主は争ってはいけない、日頃から言行を慎み何かあれば連絡すること

一、国主、城主、一万石以上の者、近習、物頭(ものがしら)は、勝手に婚姻してはならない

一、贈物、贈答、結婚式、宴会や家屋造営など、華美にせず簡略する、全てに倹約のこと

一、衣服は等級が乱れないように、白綾(しらあや)は公卿以上白小袖は大夫以上…

一、輿に乗る者は、徳川一門、国主、城主、一万石以上の者、大名の子…

一、元の主人が支障ありとした者を召し抱えない、反逆、殺人者は元に帰すか追い出す

一、幕府に人質に出している者を追放や死刑にするときはお伺いをたてること

一、領地での仕事は清廉に行い、違法なことをせず、領地を衰えさせないように

一、道路、駅馬、船や橋などを途絶えさせず移動の停滞をさせてはいけない

一、私的な関所を作ったり、新たに物資の出入りを制限してはならない

一、五百石積以上の船はつくってはならない

一、諸国の寺社領はもとより所有していところは取り離してはならない

一、全て幕府の法令なので、どの国どの場所でも守るように

 

③天和令

(徳川綱吉 出典:Wikipedia)

 

 

1683年に5代将軍徳川綱吉によって発布されました。

 

条文の数は減っているものの、以前の二つの条文を一つにまとめているところが数ヶ所あるので、内容は寛永令からは減っているわけではありません。

 

内容としては、養子の規定と殉死の禁止が新たに付け加えられたほか、「文武弓馬に励む」が「文武忠孝、礼儀正しく」と修正され、「人質の追放・死刑」の項目は削除されています。

一、文武忠孝に励み礼儀正しくあること

一、参勤交代では毎年決まった時期に守り、従者が多すぎないようにすること

一、人馬、武器は身の程に応じて普段より準備しておくこと

一、城の新築は禁止、堀・土塁・石塁の破損は指示を仰ぐ、櫓・塀・門は元通り修理する

一、企てごとをして人を集めて誓約を交わすことを禁止する、私的な関所を作ったり、新たに物資の出入りを制限してはならない

一、江戸や他藩での事件では動いてはならない、国元を動かず幕府の命令を待つ、どこかで刑罰が執行されても担当者以外は動かぬこと

一、喧嘩や口論は慎み私的な争いを禁じる、やむなきことがあれば奉行所に相談する、理由によらず本人より加担した者の罪は重い…

一、国主、城主、一万石以上の者、近習、物頭は、勝手に婚姻してはならない、公家と血縁を結ぶ場合は奉行所にとどて指示を仰ぐこと

一、贈物、贈答、結婚式、宴会や家屋造営など、華美にせず簡略する、全てに倹約のこと

一、衣服は等級が乱れないように、白綾は公卿以上白小袖は大夫以上…

一、輿に乗る者は、徳川一門、国主、城主、一万石以上の者、大名の子

一、養子は同性で相応の者を選び、なき場合は由緒正しい存命の者を言上(ごんじょう)すること…、殉死は禁止する

一、領地での仕事は清廉に行い、違法なことをせず、領地を衰えさせないように、道路、駅馬、船や橋などを途絶えさせず移動の停滞をさせてはいけない

一、諸国の寺社領はもとより所有していところは取り離してはならない

一、今回定めた条文は堅く守ること

 

その後

 

1710年の宝永令新井白石により起草され6代将軍徳川家宣が発令しました。

 

さらに、1717年は享保令8代将軍徳川吉宗によって発令されますが、これは天和令に戻す内容となっていました。

 

最初の元和令から将軍が代わるたびに発令されていましたが、寛永令では変更や追加が多かったものの以降は大きな変更は少なくなります。

 

また、吉宗が内容を天和令に戻して以降はほぼそのまま踏襲されています。

 

まとめ

 元和令・寛永令・天和令は、幕府が諸大名を統制するために出した武家諸法度のことで、最初の元和令は1615年に出され、そののち改訂が繰り返された。

 条文は、大名の政治・道徳上の訓戒、治安維持の規定、儀礼上の規定など多岐に及び、公的な定めであったため幕府と大名の従属関係は私的なものから公的なものとなった。

 参勤交代が寛永令より制度化されるなど、より詳細により厳格となる。これにより、将軍と諸大名の主従関係が確立し幕藩体制が成立したとされる。