日本という国はほとんどと言ってもいいほど侵略されたことはありません。

 

しかし、鎌倉時代の時に一回侵略されたことがあります。

 

今回はそんな『元寇(げんこう)』についてわかりやすく解説していきます。

 

元寇とは?

(元寇「文永の役」 出典:Wikipedia

 

 

元寇とは、鎌倉幕府中期から後期に起こった当時ユーラシア大陸を支配していた元が2度にわたり行った日本侵略のことです。蒙古襲来という別名があります。

 

この戦によって鎌倉幕府は滅亡へと向かっていくことになります。

 

ちなみに1度目の侵略を文永の役、2度目の侵略を弘安の役といいます。

 

元寇が行われるまでの経緯

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(チンギス・ハン 出典:Wikipedia

 

 

日本が鎌倉時代の時、すぐそばのユーラシア大陸ではとある大帝国が猛威を振るっていました。

 

その国の名は元。元々あのチンギス・ハンが建てたモンゴル帝国です。

 

元はこの頃南宋という中国の王朝と対立していましたが、この時の皇帝フビライ・ハンはこの南宋と日本が繋がっているという情報を聞き、南宋を孤立させるために1268年に日本に対して元に服属するように命令した手紙を送りつけます。

 

この頃の日本の執権は北条時宗。時宗はこの難局を乗り切るために奮闘します。

 

(北条時宗 出典:Wikipedia

 

 

時宗はこの手紙を無視。使者に対して手ぶらで帰しました。

 

使者を手ぶらで帰すということは言ってしまえば提案を拒否したと捉えても良いです。

 

もちろん、時宗はそれを承知しており、幕府は各地の神社仏閣に対して『敵国降伏』という祈願を行い始めます。

 

こうして、日本と元との対決が確実となってしまいましました。

 

文永の役!一度目の侵略

(文永の役「元軍を追撃する三井資長」 出典:Wikipedia)

①元軍の日本侵攻と鎌倉幕府

1274年1月,使者が斬られたことにブチ切れた皇帝フビライは日本を征服させるため、従属させた高麗に対して日本征伐を目的とした船の建造を命じました。

 

3万5千人の人員と莫大な木材を使い、わずか10ヶ月の間に大型の船200隻、中型の船が350隻、さらにその他の船もろもろ合わせると合計900隻の大艦隊を編成して高麗を出発しました。

 

しかし、この船が後に悲劇を生むことになるのです。

 

この時元軍の総勢は3万人。鎌倉幕府はこれに対応するために九州中心の武士を太宰府に集結させました。

 

②壱岐・対馬の虐殺

高麗を出発した元軍が最初に襲ったのが日本のちょうど真ん中にあった壱岐・対馬でした。

 

元軍は壱岐・対馬に上陸するとたちまち島全体を制圧。島の領主は討ち死にし、対馬・壱岐の男性のほとんどは殺され、さらに女性や子供は手に穴を開け、そこをひもで通して船に鎖のように結ばせました。

 

これらの残酷な記録は八幡愚童訓に書かれているものですが、これが事実かどうかは謎のままです。

 

しかし、これらの行為は特別日本の時しかやらなかったのではなく元々、元軍というのは戦った敵の国民は虐殺して女子供は奴隷にして売り飛ばすのがチンギス・ハン時代からの常識でした。

 

元軍の主力のモンゴル人は元々騎馬民族であり戦闘民族。略奪することが当たり前だったためこの行為は平然と行なえたのでしょう。

 

③元軍の博多上陸

壱岐・対馬を制圧したのち10月20日に元軍はついに九州の博多に襲来し、本格的な戦争が始まります。

 

日本軍は少弐景資という人を大将として元軍の攻撃に対応していきます。しかし元軍の強さは異常なものでした。

 

この頃の日本の戦い方はまず鏑矢という矢を撃った後、自分の出身地や名前などのプロフィールを大声で名乗って馬から攻撃するという方法でしたが、一方元軍はそんなしきたりお構いなしに元軍の威力はあんまりだけど軽量でどんどん矢が打てる弓を使って矢をバンバン打ち続けていきます。

 

さらにその矢には毒が塗られており、日本軍は当たった瞬間重傷を負ってしまいました。

 

さらに極め付けにはてつはうという火薬武器が日本軍を苦しめます。

 

てつはうというものは今で言うところの手榴弾みたいなものです。

 

日本には当時火薬なんてものはありませんでしたので、てつはうによって生み出させる轟音により日本軍はひるんでしまいます。

 

こうしてなすすべのない日本軍はどんどん後退。遂には日本の九州の役所である太宰府まで追い込まれます。

 

しかし、鎌倉武士というのは元軍の予想を上回るほどの戦闘能力を持ち死にものぐるいで戦い続けます。

 

そして、元軍は大将格の武将が負傷すると撤退を考え始め、撤退を開始します。

 

こうしてなんとか第一回目の文永の役は終わりを迎えました。

 

 

弘安の役!再び起こる侵略

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(弘安の役「海上戦」 出典:Wikipedia)

 

 

元軍が撤退してなんとか平和が訪れたかのように見えた矢先。再び元から使者がやっています。

 

もちろん内容は元への従属。北条時宗は文永の役でせっかく頑張ってもらったのにここで従属しては武士の棟梁の威厳がなくなると感じ、使者を斬り殺してしまいます

 

これにまたまたブチ切れたフビライは1279年に南宋を征服すると再び日本への侵略を計画し始めます。

 

そして南宋を滅ぼしてから3年後の1281年に元の第一軍1000隻が出航します。兵力は兵数4万、文永の役と比べると一万人増えています。

 

さらにフビライは日本の侵略を確実にするために南宋から10万以上の超大軍を寧波と呼ばれる場所から出撃させます。ちなみに朝鮮半島からの部隊を東路軍、寧波からの部隊を江南軍といいます。

 

東路軍は文永の役と同じように文永の役と同じように対馬・壱岐から博多というルートをとり、江南軍は壱岐で合流するという流れでした。

 

しかし、日本側も2度目ということもありちゃんと対策を考えていました。

 

その対策の代表的な例が防塁です。

 

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(防塁 出典:Wikipedia

 

 

防塁は総長20キロメートル、2メートルの高さを誇っており、元軍の攻撃を防ぐことができました。元軍は前回とうって変わって苦戦を強いられることになり、さらに日本軍の夜襲などで甚大な被害を出します。さらにこの時7月。とどめを刺すかのように日本に神風が吹き荒れます。

 

元軍の船は突貫工事で作った船だったためこの神風に耐えることができず次々と沈没。2万から3万の捕虜を出し撤退しました。

 

弘安の役は見事に日本が勝利した戦いであったのです。

 

 

元軍が負けた原因

(日本軍と戦う元軍の様子 出典:Wikipedia)

①馬が使えなかった

元軍が負けた原因はいろいろありますが、最大の原因は馬が使えなかったことにあると思います。

 

元やモンゴル帝国なんかは馬を使って縦横無尽に駆け巡り敵の度肝を抜いて勝利するという戦法でしたが、この元寇の主戦は海。馬なんかは使えません。

 

さらに文永の役は上陸したら使えたものの、弘安の役になれば防塁が築かれ、馬すら使えない状態になっていました。

 

②高麗や南宋の兵を使いすぎた

元軍のほとんどはモンゴル人で形成されていると思いきやなんと、元寇の時の元軍の兵士は高麗や南宋の民衆たちでした。

 

南宋や高麗の人たちは元にひどい目にあわされている身。元のために戦ってくれるとは到底思えません。

 

その通り、高麗の人たちが作った船は欠陥ばかりですぐ沈没。あっさり海戦で負けてしまいます。

 

元寇のその後

 

 

元寇の後、幕府は元軍が侵略に来ることを備えて御家人である武士をまとめ上げていきますが、元寇によってこれまで幕府と御家人の関係である御恩と奉公が崩壊しました。

 

これまでの戦なら日本国内の争いであったため勝ったらそこの領地を御家人に分配して御恩をすることができます。

 

しかし、この元寇は日本の防衛戦争でしたので、戦いに勝ったところで領地はありませんでした。

 

そのため九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめます。

 

幕府はそんな状態をなんとかするために永仁の徳政令を発布し借金をチャラにするよう命令しましたが、これの効果はイマイチ。

 

 

さらに借金をチャラにされてしまい大損した商人が徳政令を警戒して御家人にお金を貸すことをやめるようになり、余計に御家人の生活は苦しくなってしまいました。

 

そして、生活に苦しむようになってしまった御家人たちは悪党として幕府に歯向かい始め、最終的には鎌倉幕府滅亡へと繋がっていくのでした。

 

 

まとめ

✔ 元寇とは元が2度に渡って日本を侵略した事の総称のこと。

✔ 最初の方は元が圧倒的に優勢だったが、後に日本が巻き返し始め最後には神風によって撤退した。

✔ 元寇によって恩賞が払えなくなり、幕府の滅亡の原因となった。




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