【南鐐二朱銀とは】わかりやすく解説!!発行された背景や詳細・その後など

 

商業資本を利用した経済政策を行っていた田沼意次が目を付けたのは、貨幣鋳造による貨幣統一を行うことでした。

 

今回は、そんな政策で発行された『南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)』について、当時どのような時代だったのか、南鐐二朱銀とはどのような貨幣だったのか、その後どのような影響を与えたのかをわかりやすく解説していきます。

 

南鐐二朱銀とは?

(寛政南鐐二朱銀 出典:Wikipedia

 

 

当時江戸では金貨が使用され、大阪では銀貨が使用されており、商人たちは江戸と大阪を行き来するたびに、それぞれの貨幣を両替する必要がありました。

 

そして、積極経済政策をしていた田沼意次は、貨幣流通をコントロールするために、貨幣の統一化を図りました。

 

そのために1772年(明和9年)に発行されたのが、南鐐二朱銀です。

 

この貨幣は銀でできた金貨という「名目貨幣」と言われるものでした。

 

この名目貨幣はのちに「金銀の流出問題」を引き起こすことになるのです。

 

南鐐二朱銀が発行された背景・目的

①当時の貨幣制度「三貨制」

先ほどもご説明した通り、江戸時代は「江戸の金遣い、上方の銀遣い」という言葉があるように、江戸では金貨が使用され、大阪(上方)では銀貨が使用されていました。

 

また、少量ですが銅貨も補助貨幣として使用されており、金銀銅の三種類の貨幣が使用されていました。

 

そして、貨幣によって計算方法が異なっていました。

 

金貨と銅貨は、現在私たちが使用しているお金と一緒の計数貨幣1両小判が2つで2両という数え方)でしたが、銀貨は秤量貨幣のため、支払いのたびに銀貨の重量を量って価値を決めて支払いをしていました。

 

そして、銀貨は匁(もんめ)という単位で数えられ、40匁の丁銀と豆サイズの豆板銀など数種類がありました。

 

もし、支払い金額ちょうどの銀貨がない場合は、丁銀や豆板銀などを割って小さくして、お金を払っていたのです。

 

②貨幣の両替

江戸と大阪で貨幣が違うことから、「江戸から大阪」「大阪から江戸へ」行くときには、金貨と銀貨を両替する必要があり、不便でした。

 

また、金貨と銀貨の両替は変動相場制がとられており、日々違うレートで取引がされていました。

 

さらに、両替のたびに両替商に両替手数料を払うも必要もあり、とにかく不便な制度だったのです。

 

③財政建て直し

8代将軍徳川吉宗による享保の改革により、一時的に江戸幕府の財政は持ち直しをしていました。

 

 

しかし、その後の享保の大飢饉による百姓一揆や打ちこわしが発生したことにより、再び江戸幕府は財政難に陥っています。

 

 

そこで、田沼意次は幕府財政の健全化を目指し、税収を増やそうとしました。

 

(田沼意次 出典:Wikipedia)

 

田沼意次は8代将軍徳川吉宗の政策により、「農民から税金を搾り取ることは、一時的に大幅な収入増加となるが、すぐに農民からの反発に合い、一揆が増えてしまう」という結果になることを学んだため、農民からではなく、商人たちから税を取れないかと考えました。

 

そのために貨幣の流通を江戸幕府がコントロールし、市場を活性化させ、商人たちにたくさん課税をしようとしたのです。

 

そして、金貨と銀貨の変動為替が産業の発展を阻害していると考え、貨幣の統一を図っていきます。

 

10代将軍徳川家治の寵愛を受けた田沼意次による政策が行われた1767年から1786年を特に「田沼時代」などと呼ばれ、田沼意次が権力を握っていた時代でした。

 

田沼意次時代は、貨幣制度の統一のように商業に目を向けた新しい積極経済政策の一方、賄賂が横行していた時代でもありました。

 

南鐐二朱銀の発行

①明和五匁銀

まず、1765年に明和五匁銀(めいわごもんめ)という銀貨を田沼意次の命令で、川井久敬が発行しました。

 

(明和五匁銀 出典:Wikipedia

 

この明和五匁銀は金貨1=銀貨60匁という固定相場によって両替がされていました。

 

しかし、為替手数料や銀貨の秤量手数料などを収入としていた為替商から敬遠され、さらに持ち運びにかさばる銀貨だったこと、銀の純度が46%と低かったこともあり、ほとんど流通せずに1768年に市場からなくなりました。

 

②南鐐二朱銀

次に田沼意次は、1772年に南鐐二朱銀を発行します。

 

(明和南鐐二朱銀 出典:Wikipedia

 

南鐐二朱銀は、銀貨8枚で金貨1枚と交換することができました。

 

そして、交換比率が皆にわかるように貨幣の表面に「南鐐八片以て小判一両に換える」と書かれていました。

 

南鐐とは「良質な銀」のことを指し、銀純度98の良質の二朱銀であることから、「南鐐二朱銀」と呼ばれます。

 

この南鐐二朱銀は銀で作られていますが、銀貨ではなく金貨の一種であり、「名目貨幣」でした。

 

最初のうちは、商人たちも南鐐二朱銀の流通に反発していましたが、軽く両替が不要で使いやすいことや南鐐銀だったことから、南鐐二朱銀は次第に市場に普及していきます。

 

結果、この南鐐二朱銀の流通は、貨幣統一の一応の成功と言われています。

 

南鐐二朱銀の影響・その後

①一分銀の発行

南鐐二朱銀発行の後の1837年に一分銀が発行され、一分銀4枚と金貨1両と交換することができるようになりました。

 

(天保一分銀 出典:Wikipedia

 

純度は純銀に近いものの(一両あたりの銀の含有銀量は15.6匁でしたが)、含有銀量が9.2匁しかない、幕府の改鋳利益(少ない銀でたくさんの貨幣が鋳造でき、お金を増やしていくこと)が目的の名目貨幣でした。

 

天保と安政の時代に発行された一分銀は、当時の銀貨の発行数をはるかに上回るものであり、当時の流通貨幣の多くを一分銀が占めるほど、一分銀は浸透していきます。

 

しかし、これから開港後の金流出の原因ともなっていくのでした。

 

②金貨の流出

1854年の日米和親条約締結の後、日本貨幣とドルについての交換比率の交渉が行われることとなりました。

 

アメリカの交渉人である総領事のハリスは「一分銀は金ではなく、名目貨幣に過ぎないので、同量(1ドル=一分銀1枚)の交換はありえない。1ドルと一分銀3枚の交換比率にしろ。」と主張してきました。

 

今まで日本は、オランダと清(中国)と貿易していましたが、銅により取引を行っていたため、金銀の交換比率については問題となっていませんでした。

 

 

江戸幕府らアメリカとの交渉の末、「1ドルと一分銀3枚の交換」で合意となり、貿易が開始されました。

 

ところが、海外では金の価値は日本の3倍もあったことから、外国人は「日本に銀を持ち込んで、日本の金と交換する。そして交換した金を自国に持ち帰って、銀に交換する」ことを繰り返し、利益を増やしていきました。

 

このことは同時に、日本の金がどんどんと海外に持ち出されることとなります。

 

これが「金銀交換比率による金貨流出問題」となりました。

 

まとめ

 江戸と大阪で金貨と銀貨の使用区別がされており、両替が必要だった。

 両替が不要になるようにと、1772年に田沼意次が貨幣統一を図るために南鐐二朱銀は発行された。

 南鐐二朱銀は、銀純度98%と良質な銀でできた名目貨幣の金貨だった。

 名目貨幣である南鐐二朱銀の流通により、貨幣制度の統一は成功したといわれている。

 1837年からは同じ名目貨幣である一分銀が主流となり、流通していった。

 一分銀(名目貨幣)が原因で、開国後、金貨の流出問題が起こった。