第一次護憲運動(憲政擁護運動)。

 

言葉だけを聞くととても難しい気がしますが、漢字をよく見てみると結構わかりやすいんです。

 

護憲・憲政擁護とは、「憲法を守れ」という意味です。

 

こんな運動が起きるということは、憲法を守らないことがあったんだなということは、想像できますね。

 

今回は『第一次護憲運動』が起こった背景・経過・影響を簡単にわかりやすく解説していきます。

 

第一次護憲運動とは?

 

護憲運動とは、政府に対して大日本帝国憲法や政党を尊重しろという要求を行った運動です。

 

この運動は「1912年(明治45年)の第一次護憲運動」と「1926年(大正15年)の第二次護憲運動」の二つに分かれます。

 

第一次護憲運動が起ったことで、民衆のデモによって桂園時代が終わることになりました。

 

 

第一次護憲運動が行われた背景

①立憲政友会と憲政本党の成立。本格的な二大政党ができた

1898年、政府を倒すために自由党系と立憲改進党系がまとまって一つの巨大政党を作りました。これが憲政党です。

 

しかし、自由党と立憲改進党は考え方が違うところが多くたった4か月でケンカ別れしてしまいました。

 

自由党系は伊藤博文と手を組み立憲政友会を立ち上げ、もう一方の立憲改進党系は、大隈を中心に憲政本党をつくりました。

 

②桂園時代。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣になった!

明治時代の最後の10年間は、官僚や貴族院を味方につけた桂太郎と立憲政友会の総裁になった西園寺公望が交代で政権を担当しました。

 

これを桂園時代といいます。

 

この時代は日露戦争が行われたこともあって政府と政党の対立よりも日露戦争やその戦後処理が中心でした。

 

 

③陸軍二個師団増設問題。陸軍大臣が怒ってやめちゃった!

1911年、第二次桂内閣が総辞職をすると、再び西園寺公望が内閣を作りました。

 

日露戦争でお金がない政府は、何とか節約をして財政を立て直そうとしていました。

 

しかし、陸軍や海軍、特に陸軍は二個師団(約2万人)を増やせと西園寺に迫りました。

 

西園寺はお金がないとしてこれを拒否

 

すると、なんと陸軍大臣が即位したばかりの大正天皇に直接辞表を出して、勝手にやめてしまいました。

 

④西園寺内閣総辞職

西園寺は陸軍に、後任の陸軍大臣を出してくれるように頼みましたが陸軍は「二個師団さえ増やしてくれない内閣の陸軍大臣なんて誰もやらないよ」と後任を出してくれません。

 

そうなると西園寺にはどうすることもできません。

 

陸軍が大臣を出してくれないと内閣は存続不可能。西園寺は泣く泣く総辞職しました。

 

第一次護憲運運動の原因と経過

①第三次桂内閣の成立。やっぱり、桂の出番?

西園寺が辞めた後、山県らの元老は桂太郎を総理大臣に推薦します。第三次桂内閣です。

 

桂は陸軍出身。軍の言うことを聞いてくれるだろうと期待してのことでした。

 

ところが、桂の再登場には問題があったのです。それは桂は、このとき内大臣兼侍従長として宮中の人になっていました。

 

どうして、宮中に入った人が総理大臣になると問題なのでしょうか?

 

②宮中・府中の別

大日本帝国憲法では天皇に大きな権限(天皇大権)が与えられていました。

 

 

これは天皇がいる宮中に所属する人が政治のこと(府中)に口を出すと政治が混乱すると考え、宮中に入った人は政治にかかわらないというのが当時の考え方でした。

 

内大臣になっていた桂は宮中の人です。

 

その人が再び府中にでてくると、宮中と府中を区別した当時の仕組みに反するという問題が起きてしまったのです。

 

③桂内閣に対する抵抗。スローガンは『閥族打破・憲政擁護

陸軍によって西園寺内閣をつぶされた立憲政友会はもとより、政友会と距離をとっていた立憲国民党(改進党・憲政会系)も一致団結して桂内閣に対して反対にキャンペーンを開始しました。

 

その時の合言葉(スローガン)が「閥族打破・憲政擁護」です。

 

閥族、つまり陸軍や官僚などの「閥族」(特定の派閥)を打ち破って憲法に基づく政治守ろうということです。

 

④運動の中心人物は、尾崎行雄・犬養毅!

(尾崎行雄 出典:Wikipedia

 

 

この時すでに憲法を守れ!運動は大盛り上がりな状態でした。

 

桂内閣はこの事態を乗り切るために勅語を濫用しました。

 

何かあれば「これは天皇陛下のお言葉です」といって反対者を黙らせようとしたのです。

 

これに対して立憲政友会の尾崎行雄は「桂、お前は天皇陛下の陰に隠れて天皇の玉座を盾にしている。しかも、その陰から天皇の命令だといって相手を攻撃する。これは卑怯じゃないか!」といった内容の演説で桂を追い詰めます。

 

立憲国民党の犬養毅もこれを援護し、これに世論も同調しました。

 

 

(犬養毅 出典:Wikipedia

 

⑤桂による新党結成構想と桂内閣総辞職

攻撃のすさまじさと世論の反発を前にして桂は議会内に味方を作る必要を感じます。

 

しかし、桂が総理大臣でいるうちは間に合いませんでした。

 

そんなことをしているうちに、反桂の動きは全国に広がっていきます。

 

民衆の怒りは爆発!国会議事堂を群集が取り囲み「桂やめろ!」の大合唱を始めます。

 

桂はこれ以上の内閣継続は不可能だと考え総辞職。これは成立からわずか53日の出来事です。

 

こうして第三次桂内閣は初めてデモで倒された内閣となってしまいました。この出来事を大正政変といいます。

 

 

第一次護憲運動の影響

①大正デモクラシーのはじまり

第一次護憲運動は、民衆の力で総理大臣を退陣に追い込んだのは初めての出来事でした

 

この運動を機に、政府はこれまで以上に政党や世論の動きを意識せざるを得なくなりました。

 

今までのように「政府は政党や国民の意見を聞かない」なんてことは言えなくなったのです。

 

この後、吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などの理論的な支えを受け、その後大正デモクラシーが発展していきました。

 

 

②原敬内閣の成立

第一次護憲運動後も、寺内正毅内閣のように陸軍の影響を受けた内閣はできますが、政党無視の政治は不可能でした。

 

その後、寺内内閣は米騒動をきっかけに総辞職に追い込まれます。

 

 

そしてついに衆議院出身の政治家である原敬が本格的な政党内閣を作っていくことになるのです

 

 

まとめ

 第一次護憲運動は憲法を守り政党を尊重せよと主張した運動のこと。

 政友会の西園寺内閣は陸軍の二個師団増設要求を拒否した。

 陸軍大臣が勝手に辞任し、陸軍は公認を出さず西園寺内閣は倒された。

 桂が内閣を作ったが、それに反対して第一次護憲運動が起きた。

 第一次護憲運動のスローガンは「閥族打破・憲政擁護」。運動の中心人物は尾崎行雄と犬養毅。

 桂内閣は民衆のデモによって倒された。

 第一次護憲運動をきっかけに大正デモクラシーがはじまった。




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