日米開戦1カ月前の1941年11月、日本は中国やフランス領インドシナの支配をめぐって、アメリカとギリギリの交渉を続けていました。

 

しかし、その交渉もハルノートと呼ばれる1通の外交文書によって打ち切られてしまいます。

 

今回はそんな『ハルノート』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

ハルノートとは?

(コーデル・ハル 出典:Wikipedia

 

 

ハルノートとは、1941年11月に日米交渉の最終段階で、アメリカ国務長官のコーデル・ハルが日本側に提案した外交文書です。

 

その内容は、中国とフランス領インドシナからの撤退や、アメリカが支援していた蒋介石率いる国民政府への支持、中国における治外法権と租界の放棄、日独伊三国軍事同盟の実質的な破棄などを日本に迫るものでした。

 

しかし、この要求は当時の日本にとって認めがたいものでした。日本側はこれをアメリカの最後通牒とみなし、12月1日に日米開戦を決定しました。

 

ハルノートの背景

①日米交渉が始まるまで

1937年の盧溝橋事件によって始まった日中戦争は、中国側の抵抗が予想以上に激しく、戦争をどのように終結させるのか、日本は見通しを失っていました。

 

それに加えて、日本はこの戦争の中で、中国に停泊していたアメリカの軍艦を撃沈したり、中国在住のアメリカ人に危害を加えたり、アメリカが中国にもっていた権益を奪ったりしました。これにより、日米関係は急速に悪化していきます。

 

そうした中、1940年に日米通商航海条約が失効し、日米は「無条約時代」に突入してしまいます。

 

日本国内では、同年に第二次近衛内閣が発足し、日米開戦も辞さない強硬な外交を進めるように、国策を転換しました。

 

これに基づいて、同年9月22日に北部フランス領インドシナへ進駐を始め、同27日には日独伊三国同盟を締結しました。

 

 

こうした日本の動きに対して、ルーズヴェルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」と演説し、日本への経済制裁を行います。

 

翌年の1941年には、対日資産凍結や石油の対日輸出全面禁止の措置をとるようになりました。

 

②日米交渉の推移

アメリカのこうした経済制裁に対処するため、第二次近衛内閣は1941年4月から日米交渉を始めます。

 

その交渉を実際に進めたのが、駐米大使の野村吉三郎とハル国務長官でした。

 

日米交渉では当初、三国同盟の反米的性格を薄めた日米諒解案が作成されていました。

 

ところが、松岡洋右外相がこの諒解案に反対したことで、交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。

 

 

(松岡洋右 出典:Wikipedia)

 

 

事態の打開を目指して、近衛首相がルーズヴェルト大統領との会談を提案しますが、アメリカ側の態度が硬化していたため、これも実現しませんでした。

 

そこで、日本は11月5日の御前会議で、日米交渉の最終案として、アメリカ側に提示する2種類の案を用意します。

 

これがいわゆる「甲案」と「乙案」と呼ばれるものです。

 

まず、甲案を提示した上で交渉を進め、アメリカ側がこれを拒否した場合には、譲歩案として乙案を提示するという流れを考えていました。

 

しかし、結局アメリカ側はこの2案をどちらも拒否します。

 

ハル国務長官は11月26日、駐米大使の野村吉三郎とその補佐役の来栖三郎を呼び寄せ、日本側が提示する2案に同意できないとして、その代わりにハルノートを提示します。

 

 

(来栖三郎 出典:Wikipedia)

 

ハルノートの内容

 

ハルノートは1941年11月26日にアメリカのハル国務長官が示した外交文書です。正式なタイトルは「合衆国及日本国間協定の基礎概略」と言います。

 

冒頭に「厳秘、一時的にして拘束力なし」と書かれているとおり、これはアメリカ政府の正式な提案ではなく、あくまで覚書という性格をもつものでした。

 

この文書には第1項と第2項があります。

 

第1項では、一般的な4つの平和原則(いわゆるハル四原則)が示されています。それは次のようなものでした。

ハル四原則

(1)あらゆる国家の領土保全と主権を侵害してはならないこと。

(2)他国の国内問題に関与してはならないこと。

(3)通商上の機会や待遇で平等を守ること。

(4)紛争を防止し平和的な解決ができるように、国際協力をすること。

 

第2項では、これら四つの原則を踏まえて、10項目の具体的な措置が示されています。

第2項【10項目】

(1)日本・アメリカ・イギリス・ソ連・オランダ・中国・タイの間での相互不可侵条約を締結すること。

(2)日本・アメリカ・イギリス・オランダ・中国・タイの間で、フランス領インドシナの不可侵と、フランス領インドシナにおける経済上の平等待遇に関して、協定を締結すること。

(3)中国・フランス領インドシナから日本軍を撤収させること。

(4)日本が蒋介石率いる国民政府以外の政権を支持しないよう確約すること。

(5)中国における治外法権と租界を放棄すること。

(6)最恵国待遇を基礎とする日米間通商協定を締結すること。

(7)日米が経済制裁のため相互に行っていた資産の凍結を解除すること。

(8)円・ドル為替を安定させること。

(9)日独伊三国軍事同盟を実質的に破棄すること。

(10)日米両国がこの協定内容を推進すること。

 

ハルノートへの日本の対応

 

ハルノートの内容はアメリカ側では「平和的解決案」としてみなされていましたが、日本からすれば、「アジアの情勢を満州事変以前の状態に戻せ」と言っているようなものです。

 

 

1937年に始まった日中戦争が予想以上に長期化し、これまでの犠牲に見合うだけの戦果を求めていた日本にとっては、これは到底飲めない要求でした。

 

当時外相だった東郷茂徳は、「自分は眼も暗むばかりの失望に撃たれた。其の内容の激しさには少なからず驚かされた」と、ハルノートを受け取った時の失望を語っています。

 

 

(東郷茂徳 出典:Wikipedia

 

 

東郷にとって、アメリカの要求は、長年にわたる日本の犠牲を全く無視したものであり、日本に対して大国の地位を放棄しろと言っているのに等しいものでした。

 

「最早や立ち上がる外ない」と、日米開戦が避けられないことを悟っています。

 

アメリカが無理難題を示してきたと受け取った日本側は、これをアメリカの最後通牒とみなし、12月1日の御前会議で日米開戦を決定しました。

 

そして、1週間後の12月8日に、日本海軍がハワイの真珠湾にあった米軍基地を奇襲攻撃したことにより、アジア・太平洋戦争が始まりました。

 

敗戦後の日本

(東京裁判での判事席の様子 出典:Wikipedia

 

 

ハルノートの存在が一般によく知られるようになったのは、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)を通してでした。

 

連合国側の判事の中で、この裁判の欺瞞を唱えたインド代表の法学者パールは、ハルノートについて、「このような覚書を受け取れば、モナコ公国やルクセンブルク大公国であっても、アメリカに対して戦争を仕掛けたであろうと、現代の歴史家たちでさえも考えることがありうるだろう」と述べています。

 

ハルノートの評価も含めて、日米開戦の原因が何であったのかは、いまだに議論になっています。

 

まとめ

 ハルノートは、1941年11月に日米交渉の最終段階で、アメリカ国務長官ハルが日本側に提案した外交文書のこと。

 その内容は、中国とフランス領インドシナからの撤退や、アメリカが支援していた蒋介石率いる国民政府への支持など、アジアの情勢を満州事変以前の状態に戻すように、日本に要求するものだった。

 日本はこれをアメリカの最後通牒とみなし、12月1日に日米開戦を決定した。

 ハルノートの存在は、戦後の極東国際軍事裁判を通して知られるようになった。

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