【五街道の覚え方】超簡単・語呂合わせ!!五街道の意味&豆知識なども紹介!

 

今でも道路というのは身近な存在『五街道』。

 

江戸時代の頃でも道路というのはとても大切なものでした。

 

今回はそんな五街道の概要・覚え方について解説していきます。

 

五街道とは?

(五街道マップ 引用元

 

 

五街道とは江戸時代に造られた東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の5つの重要な道路の総称のことです。

 

これらの道の起点はすべて日本橋でした。

 

また、五街道の中で江戸に近かった宿場町は江戸四宿と言われ、現在でもその名前には名残が残っています。

 

五街道の覚え方

 

こう 五街道。

 

東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道

 

と覚えておけば完璧です!

 

ここからは、五街道が作られた理由・それぞれの街道の詳細を解説していきます。

 

五街道が造られたわけ

 

100年以上続いた戦国時代も大坂夏の陣の終結によってようやく終わり、平和な時代が訪れた頃。

 

時の将軍徳川秀忠は江戸を中心とした道路整備の計画を始めるようになりました。

 

なんで道路を整備する必要があるのか?というとインフラ整備自体が戦争を起こしにくくする方法だったためです。

 

例として幕末に日本にやってきた外国人は『街道を整備したおかげで日本は戦争が起きにくくなった』とコメントしているほどです。

 

五街道の詳細データ

(木曾街道 板橋之驛 出典:Wikipedia

①東海道 (起点 日本橋〜終点 三条大橋)

五街道の中で一番有名で新幹線の路線名にもなっている東海道。

 

この道路は日本橋をスタートして相模・駿河・尾張を通りながら最終的に京都の三条大橋に着きます。

 

この東海道には53の宿があったため東海道五十三次という有名な絵のモデルにもなっています。

 

この道は海沿いの重要都市や京都に繋がっていることからたくさんの利用客がおり、どの宿にも最低300人程がいるほどの賑わいがありました。

 

しかし、その分幕府からの警備はとても厳重で、箱根、新井には巨大な関所があり、(ちなみに東海道を利用する時に関所を通らなかったら関所破りとなって死刑となる)『入り鉄砲に出女』といって女性は特に厳しく検査されました。

 

さらに大井川、安倍川、酒匂川にはもし敵が攻めてきた時の防御のためにあえて橋を作らなかったりしていました。

 

そのため大井川などを渡る時には、そこにいる川足の人の肩に乗って渡らなければいけなかったそうです。

 

しかも、もし大雨で川が増水したら渡れずにそこで足止めを食らうこともあったためまさしく運任せでした。

 

②中山道(起点日本橋〜終点三条大橋※草津からは東海道と一緒)

中山道は東海道のような海沿いではなく、山道を超えて群馬、長野、岐阜などを通って京都に向かうルートでした。

 

中山道は東海道のように賑やかでななく、中山道沿いの藩などが大名行列などで通るなどとして使われるぐらいでした。

 

しかし、皇女和宮などの皇族出身で徳川将軍家に嫁ぐ人は東海道ではなく中山道を通って江戸へと向かいました。

 

③奥州街道(起点日本橋〜終点白河※日本橋から宇都宮は日光街道と一緒)

奥州街道は名前の通り奥州(東北)へと向かう街道です。

 

しかし、なんでよりにもよって終点が微妙な白河なのか?

 

実は奥州街道は函館まで伸びているんです。幕府管轄の奥州街道が白河までなんです。

 

この奥州街道も東北の大名が大名行列などで通るぐらいでしたが、蝦夷地の開発が進んでいくうちに通る人がどんどん増えていきました。

 

 

④日光街道 (起点日本橋〜終点日光)

日光街道は日本橋から徳川家康が祀られている日光までを結んでいる街道です。

 

五街道の中では甲州街道に並ぶほど地味な存在ですが、日光に徳川家康が祀られている日光東照宮があるため幕府は特に日光街道の整備を進めていました。

 

日光街道を使うのは東照宮の参拝が主な目的でした。

 

⑤甲州街道 (起点日本橋〜終点下諏訪)

甲州街道は日本橋から甲府を通って長野下諏訪までを結んでいる街道です。

 

この街道が一番最後に整備されました。

 

しかし、この街道を大名行列の時に使う藩は少なく、寂れている宿もあったそうです。

 

宿場町の発展

 

 

宿場町とは五街道のそれ以外の街道にあった宿や休憩スポットのことです。

 

宿場自体の歴史は奈良時代から駅という形で存在していましたが、江戸時代に入ると宿屋をはじめとして茶屋などの飲食店などが立ち並び宿場を中心として町が発展していきました。

 

この宿場中心で発展した町のことを宿場町といいます。

 

江戸四宿について

(品川宿『東海道五十三次』より 出典:Wikipedia

 

 

江戸四宿とは五街道の宿場町の中で江戸に近かった四つの宿場町の総称のことです。

 

①品川宿

品川宿とは現在の東京都品川区にあった宿場町で東海道で最初の宿場町でもありました。

 

品川宿は東海道にあったのもあって江戸四宿の中でも特に賑わっていました。

 

さらに品川では遊郭も発展して幕府公認の遊郭と非合法の遊郭が乱立しており、幕府が目を光らせていました。

 

②板橋宿

板橋宿は現在の東京都板橋区にあった宿場町で中山道の最初の宿場町でした。

 

板橋宿は四宿の中ではあまり栄えませんでしたが、それでも一応江戸にあったため中山道の中では特に栄えていた宿場町でもありました。

 

しかし中山道は決まって皇族が徳川将軍家に嫁ぐ時に使われた道だったので和宮もこの宿に泊まりました。

 

③内藤新宿

内藤新宿は現在の東京都新宿区にあった宿場町で甲州街道の最初の宿場町でした。

 

内藤新宿という名前でピンとくる人がいると思いますが、それもそうこの内藤新宿が今の都庁がある新宿の由来となりました。

 

しかし江戸時代の時は今のような大繁華街ではなく、1718年には一回内藤新宿は廃止となることもありました。

 

しかし、町人の必死の願いによって50年後の1772年に復活してかつての栄光を取り戻し品川宿の次に栄えながら幕末を迎えました。

 

廃止された時にあの町人の願いがなかったらもしかしたら今の新宿の発展はなかったのかもしれませんね。

 

④千住宿

千住宿は現在の足立区にあった宿場町で日光街道、奥州街道の最初の宿場町でした。

 

千住宿は江戸時代初期には東北の諸大名などの大名行列や、日本最大の遊郭であった吉原遊郭もあって品川宿に次ぐ規模を誇っていましたが、のちに内藤新宿に追い越されてしまいました。

 

ちなみに松尾芭蕉が奥の細道にて『行く春や鳥啼き魚の目は泪』という俳句を詠んだのはこの千住宿と言われています。

 

まとめ

 五街道は江戸時代に完成した東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道の総称。

 五街道の覚え方は『途中に置こう!』

 東海道は特に賑わっていたがその分幕府の警備も厳しく『入り鉄砲に出女』という鉄砲と女性に注意していた。

 五街道の中で最初の宿場町は江戸四宿といって今でもその名前には名残が残っている。

 

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