2次世界大戦の最中の194311月、連合国側はヨーロッパ方面の戦線、戦後処理等について会談を行います。

 

この会談はイランのテヘランで行われた為、『テヘラン会談』と呼ばれました。

 

今回はこのテヘラン会談が行われた背景、会談内容、その後について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

テヘラン会談とは?

 

テヘラン会談とは、1943年(昭和18年)11月にアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連のスターリン議長を中心として行われた会談です。

 

主にドイツの戦線について話し合われていますが、日本にとって重要な事柄が秘密裏に決められています。

 

テヘラン会談が行われた背景

①ポーランドの国境問題

テヘラン会談の前に覚えておく必要があるのが、ポーランドを取り巻く状況です。

 

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によりポーランドは123年ぶりに独立。国境を定める事になります。

 

ロシア方面である東側の国境線は多種多様な民族がいる事やロシアの反対もあり、決定に難儀。

 

1919年に民族分布の観点からイギリスの外相カーゾンが国境線を定めます。これをカーゾン線と呼びます

 

ポーランドは元々の領土を主張しており、カーゾン線に反対。ポーランド・ソビエト戦争(19191921)に勝利し、200km程東に国境線を成立させ、領土獲得に成功します。

 

その後1932年にソ連、ドイツと不可侵条約を締結。領土の独立を保っていましたが、19399月にドイツとソ連に侵略され、ポーランドはドイツとソ連により分断。

 

ソ連側の国境はカーゾン線を元に決められました。

 

ドイツがポーランドに侵略した際、何故かソ連まで一緒に侵略していますが、これは独ソ不可侵条約が関係しています。

 

 

簡単に言えばドイツとソ連は互いに戦争は起こさないという内容ですが、ポーランドはドイツが占領した後は西側をドイツ、東側をソ連で分割するという約束が秘密裏に決められていました。

 

ドイツがポーランドに侵攻した事で第二次世界大戦が始まります。

 

②独ソ戦

19416月 ドイツは突如ソ連に侵攻。独ソ不可侵条約は破棄されています。

 

ソ連はイギリスと手を組み、7月には英ソ軍事同盟を成立。8月にはルーズベルトとチャーチルの間で大西洋憲章という会議が行われ、スターリンは内容の支持を表明します。

 

内容は主に第二次世界大戦後の戦後処理や、国際協調のあり方等が主です。

 

こうして徐々にソ連とアメリカ、イギリスとの距離が縮まっていきます。

 

独ソ戦は当初はドイツが連戦連勝で、12月にはモスクワに到着しますが、冬のロシアの寒さは厳しく勢いは失速。徐々に陰りがみられます。

 

12月には日本が真珠湾攻撃を実施。アメリカと日本が太平洋戦争を開始します。

 

 

③連合国の会談

19437月にはシチリア島の戦いで連合国側が勝利し、徐々に枢軸国側の敗北が濃厚になります。

 

19438月のケベック会議以降は、ソ連のスターリンや中国の蒋介石にも声がかかります。

 

11月23〜27日にはルーズベルト、チャーチル、蒋介石がカイロで会談を行います。

 

 

ソ連は日本と日ソ中立条約を締結しており不参加。カイロ会談では主に日本の戦後処理について話し合われています。

 

会談終了後、1128日にはヨーロッパ戦線について話し合う為、イランのテヘランで会談が行われます。

 

ルーズベルトチャーチル、そしてスターリンが主要メンバーであり、彼ら3人が集結するのは今回が初めてでした。

 

テヘラン会談の内容

 

会談は多岐に渡りますが、大まかな内容は・・・

 

①独ソ戦における第2戦線の場所をどこにするか。

②ドイツ降伏後にソ連が日本との戦争に参加する。

③ドイツ降伏後のポーランドの国境をどこにするか。

④機能停止状態になっている国際連盟の代わりになる新しい国際組織の設立

 

それぞれ詳しく見ていきましょう。

 

①独ソ戦における第2戦線の場所をどこにするか。

独ソ戦はソ連が優勢とは言え、戦争は激しさを極めており、ソ連も疲弊していました。

 

イギリスとアメリカは支援をする事を約束。第2戦線とは、主戦場以外に設ける戦線の事です。

 

スターリンは、西側の北フランス戦線から反撃する事を提案しますが、チャーチルはバルカン半島での反撃を主張します。

 

チャーチルは、バルカン半島は多くのソ連兵が駐在しており、そこにアメリカ兵・イギリス兵を送り込む事で、ソ連に牽制をするつもりでした。

 

北フランスから反撃をするとバルカン半島のソ連兵はそのまま駐在し、ドイツを陥落後もソ連の東欧における影響力は大きいと考えたのです。

 

ただバルカン半島はドイツ兵の激しい抵抗も予想され、アメリカ・イギリス兵の損害も大きいと判断。

 

ルーズベルトの意向もあり、結果的にスターリンの提案した北フランスからの反撃案が採用されます。この反撃案をノルマンディー上陸作戦と呼びます。

 

②ドイツ降伏後にソ連が日本との戦争に参加する。

ソ連の対日参戦はルーズベルトの提案です。

 

カイロ会談でも話合われていますが、日中戦争は日本が優勢となっており、米軍が満州国の関東軍と戦う事になると陸上での戦車戦となり、アメリカの負担が大きかったのです。

 

ルーズベルトが①のノルマンディー上陸作成でスターリンの意見を採用したのも、ソ連の対日参戦の打診の目的もありました。

 

当時ソ連は日本と日ソ中立条約を締結していましたが、スターリンは日本の領土を条件に条約を破棄する事を考えます。

 

ルーズベルトは帰国後の演説で、ソ連は南樺太と千島の引渡しを望んだと報告していますが、会談の公式記録にその報告内容はなく、真相は闇の中です。

 

③ドイツ降伏後のポーランドの国境をどこにするか。

ポーランドはドイツとソ連により分割されていますが、ドイツ降伏後に当然ポーランドは復活する事になります。

 

チャーチルはソ連軍によりポーランドが解放されると、東欧におけるソ連の影響力が増大すると判断。先にポーランドの国境を決めようと伝え、ロシア側の国境はカーゾン線で分ける事を提案します。

 

しかしポーランド亡命政府はポーランド・ソビエト戦争の際に獲得した国境線が良いと反対。今回の会談では国境線は定まりませんでした。

 

④機能停止状態になっている国際連盟の代わりになる新しい国際組織の設立

国際連盟は第二次世界大戦後、職員や予算の削減により、立場も規模も小さくなっていました。

 

テヘラン会議により、新たな国際組織へ移行する事が決まります。それが国際連合です。

 

テヘラン会談のその後

 

カイロ会談とテヘラン会談により、日本とドイツへの方針も決定、その後の会談は戦争の諸問題から戦後処理へと移行していきます。

 

19452月にはヤルタ会談が開催。メンバーはテヘラン会談同様にルーズベルト、チャーチル、スターリンです。

 

 

この時点でイタリアは降伏、対ドイツとの勝利も確実となっていました。

 

ドイツの処理については領土をポーランドに返還し、首都のベルリンはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連で統治する事になりました。

 

ポーランドの国境問題ですが、アメリカ、イギリス、ソ連の合意により、結局はカーゾン線を元に国境が定められます。

 

ソ連はポーランド側の領土の拡大を図る事に成功します。

 

ソ連はドイツの降伏3か月以外に対日参戦する事が決まります。

 

この時点で日ソ中立条約を破棄する事を日本に内密で決定。これが現在も尾を引く北方領土問題の発端となるのです。

 

ちなみに独ソ戦は19458月に集結していますが、おびただしい死者を出しており、民間人の死者をいれるとソ連は20003000万人が死亡し、ドイツは約6001000万人しています。

 

これは人類史上全ての戦争の中で最も多い数でした。

 

まとめ

 テヘラン会談はルーズベルト、チャーチル、スターリンによる会談。

 主に独ソ戦の第2戦線、ドイツ降伏後のポーランドの国境線について話し合われた。

 会談にてソ連はドイツ降伏後に対日参戦する方針が定まった。




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