大正時代の日本史を勉強していると、金解禁というキーワードが登場します。
国際経済と絡みあった言葉で、理解するのがとても難しいですよね。
金解禁は日本を金本位制に戻して国際経済に復帰させようとする政策でした。
しかし、最悪のタイミングで世界恐慌が発生し金解禁政策は失敗。農村は疲弊し、後の軍部暴走につながってしまいます。
今回はそんな『金解禁』にいたる時代背景、金解禁政策の経過、金解禁が後に与えた影響をわかりやすく解説していきます。
目次
金解禁とは?
金解禁とは、1930年(昭和5年)に行われた金輸出の禁止を解除し、金の自由な輸出を認めることをいいます。
その狙いは、金本位制への復帰です。当時の世界経済は金本位制で成り立っていましたから、金本位制に参加することは国際経済に仲間入りすることを意味しました。
もともと日本は1897年に念願の金本位制を確立していました。
しかし1914年、世界では第一次世界大戦が勃発。先進国は金輸出の停止に踏み切ります。
【戦争は大きな赤字が出るため、金の輸出を認めたままだとどんどん金が流出してしまう】各国はそれを恐れ、日本も各国の動きに合わせて金輸出を停止しました。
大戦後、世界は再び金本位制に復帰するのですが、日本だけがそれに乗り遅れてしまいました。
このままではまずいということで、井上準之助という大蔵大臣が中心となり、金解禁と金本位制への復帰を目指します。
それでは、金解禁にいたるまでの時代背景をもう少し詳しく見ていきましょう。
金解禁が行われた背景
①日本は金本位制から取り残された
第一次世界大戦が勃発すると、先進諸国は金輸出の禁止に踏み切ります。
戦争は大きな赤字が出ますから、なにも対処をしないでおくと、どんどん金が国外に流出してしまうのです。
これを防ぐための金輸出停止でした。
1917年、アメリカも大戦に参加して金輸出を停止。日本もアメリカに応じるかたちで金の輸出を停止しました。
日本は1897年に金本位制を確立していましたが、ここにきてそれがいったんストップするのです。
やがて第一次世界大戦は終結。もう赤字を垂れ流す心配はなくなったので、各国は金の輸出停止を解除します。
ところが、日本だけは金本位制の復帰に乗り遅れてしまいました。
当時の日本国内はどのような状況だったのでしょうか?
②金解禁前、日本は不況に苦しんでいた
実はこの時期、日本は深刻な不況に苦しんでいたのです。
企業の活動は低迷し、貿易も不振。そこで政府がとった対策が、日銀にお金を刷らせることでした。
お金を大量に刷ることで大規模な金融緩和をし、経済を浮上させようと試みたのです。
金本位制ではこのような政策はできません。お金の価値が金を基準に決まりますから、持っている金以上のお金をどんどん刷ることは現実的には難しいのです。
これが、当時の日本が金本位制への復帰をためらった理由です。
しかし、日銀の政策には目立った効果がありませんでした。
むしろ、マイナスの効果が現れます。お金を刷りすぎたせいでインフレーションが起こり、円の価値がどんどん下落していったのです。
インフレが起きているのにもかかわらず景気は悪い。当時の日本はこのような最悪の状況でした。
③民政党「浜口雄幸内閣」の登場
この状況で登場したのが民政党の浜口雄幸内閣でした。
お金に関わる政策を担当する大蔵大臣は井上準之助。この井上が中心となって、金解禁が始まります。
(井上準之助 出典:Wikipedia)
次に、その経過を見ていきましょう。
金解禁の実施と経過
①井上財政の開始
井上準之助が行った改革は井上財政の名で知られます。
その中身は「緊縮財政」と「産業の合理化」、そして「金解禁」の3つです。
まず、日銀にお金を刷らせて無理やり景気を浮上させようと試みていた放漫財政を見直します。
無駄な支出を減らしてインフレを退治することで、通貨の価値を安定させようとしたのです。これが緊縮財政と呼ばれるものです。
次に産業の合理化ですが、これは競争力のない企業を淘汰することを意味します。
放漫財政のもとで生きながらえてきた競争力のない企業を倒産させ、元気のある企業に資源を集中することが目的です。こうして日本経済に国際競争力をつけさせようとしたのです。
これらの政策で国内経済を強くしたところで、金解禁へと踏み出します。
為替を安定させ、日本を世界標準の金本位制に復帰させることが目的です。
一刻も早く日本を国際経済の舞台に参加させたかったわけですね。
②世界恐慌が発生
しかし、ここで予期せぬ事態が起こります。
1929年、アメリカのニューヨーク市場で株式が大暴落したのです。
井上は事態を楽観視し、翌年1930年(昭和5年)に予定通り金解禁に踏み切りますが、これが裏目に出ました。
アメリカの恐慌がヨーロッパに波及し、日本をも巻き込む世界恐慌が発生したのです。
日本ではこの恐慌は昭和恐慌と呼ばれました。
こうして井上が行っていた緊縮財政に昭和恐慌が重なり、日本は深刻なデフレ不況へと突入します。
輸入超過で金がどんどん流出していき、金解禁が最悪のタイミングであったことが明らかになりました。
金解禁が後に与えた影響
①昭和恐慌による「失業者が増加」と「農村疲弊」
昭和恐慌によって失業者が増加し、労働争議も相次ぐようになります。
井上財政の緊縮政策でただでさえ失業者が増えていたところに、追い打ちをかける格好になったわけです。
また農村の疲弊も深刻化しました。
世界恐慌で海外からの需要が低下し、農産物の価格がどんどん下落していったのです。
収入の減った農村では小作争議も激化。しかし、政府は農村の窮乏化に対策を打ち出しませんでした。
農村の疲弊は、後の軍部暴走につながったという点でも重要です。
軍部には農村出身者が多く、日本の農村を救いたいという情熱をもっていた人間がたくさんいました。
これが行き過ぎたことで、エリートに対するテロ活動や、性急な革命路線が取られることになっていくのです。
②金輸出の再禁止
1931年(昭和6年)に犬養毅内閣が誕生すると、金輸出は再禁止されます。
時の大蔵大臣は高橋是清。この人は井上準之助の師ともいえる人物でした。
(高橋是清 出典:Wikipedia)
高橋は赤字覚悟の積極財政に転換し、公債を発行してどんどん支出を増やしていきます。
高橋是清の放漫財政によって、経済は一時的に上向きました。
しかし、社会は混迷を極めていき、1932年井上準之助は血盟団と呼ばれるテロリスト集団によって暗殺されてしまいます。これが血盟団事件です。
日本の財政を安定させ、国際金融の世界に復帰させることを目指していた井上準之助。
しかし、その金解禁政策はこのようにあまりにも悲劇的な結末を迎えてしまいました。
世界恐慌の影響で世界経済はブロック化し、井上が参加を夢見た自由な国際金融市場も終焉を迎えます。
こうして日本を含めた世界各国は、第二次世界大戦への道を突き進んでいくのです。
まとめ
✔ 金解禁とは、金輸出の停止を解除し、金本位制に復帰するための政策のこと。
✔ 第一次大戦後、日本は深刻な不況に直面し、金本位制への復帰が遅れていた。
✔ 井上準之助が中心となって1930年(昭和5年)金解禁政策に踏み切った。
✔ 最悪のタイミングで世界恐慌が発生し、金解禁は失敗に終わった。
✔ 昭和恐慌で農村が疲弊し、後の軍部暴走にもつながった。