一般に「源平合戦」と呼ばれる一連の戦いは正確には「治承・寿永の乱」といい、長年しのぎを削ってきた桓武平氏と清和源氏とが決着をつけることになった戦いことです。

 

 

一連の戦いは40ほどに及びますが、以仁王の令旨に最初に呼応したのが源頼朝であり、その頼朝が挙兵したのが石橋山の戦いです。

 

また、最後となる壇ノ浦の戦いにおいて、平氏が滅ぶことはよく知られるところです。

 

今回は、『石橋山の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

石橋山の戦いとは?

(神奈川県にある石橋山古戦場 出典:Wikipedia

 

 

石橋山の戦いとは、治承・寿永の乱という6年間にわたる大規模ないくつかの内乱のひとつであり、1180年に相摸国で起こった源頼朝と大庭景親ら平氏との戦いのことです。

 

源頼朝は後白河天皇の子である以仁王の令旨によって挙兵し、山木館を襲撃することに成功しました。

 

しかし、石橋山の戦いでは援軍が間に合わなかったこともあり、平家の大軍に抵抗する力はなく敗走を余儀なくされます。

 

こののち源氏だけではなく、在庁官人、平氏に不満を持つ豪族などが、全国各地で次々と挙兵し長い戦いが続くことになります。

 

石橋山の戦いが起こった背景

(源頼朝 出典:Wikipedia)

①源頼朝の状況

源頼朝の父である源義朝は、保元の乱では上皇方を破る活躍を見せます。

 

 

しかし、平治の乱では以前から所縁のあった東国に逃れる途中で平清盛に討たれ、頼朝は伊豆に流されてしまいました。

 

伊豆でも読経をおこたらず一地方武士として日々を送っていた頼朝は、頼朝の監視役であった伊豆の豪族北条時政の長女政子と結婚し一女をもうけます。

 

当初は娘の交際に反対していた時政でしたが、これを認めて頼朝を後援する存在となりました。

 

②以仁王の挙兵

1179年、平清盛は後白河法皇を幽閉し関白の松殿基房を追放する治承三年の政変を起こすと、貴族や大寺社、地方の武士たちの平氏への不満は強まっていきます。

 

1180年、清盛が孫の幼い安徳天皇を位につけると、後白河法皇の子の以仁王は源頼政と園城寺や興福寺を味方につけて平氏打倒の挙兵を決意し、諸国の源氏や藤原氏に決起をよびかける令旨を送りました。

 

 

(以仁王 出典:Wikipedia)

 

 

やがて挙兵計画は平家側に漏れてしまうと、同年5月には十分に準備が整う前に兵を挙げることになります。

 

その結果、頼政は宇治で戦死し、以仁王は興福寺に向かう途中の南山城で討ち取られてしまいました。

 

③以仁王の令旨

以仁王は討ち取られるものの、頼朝の叔父の源行家が使者となって諸国を廻ることによって令旨が伝わりました。

 

行家は49日に京を立って諸国を廻る途中、427日に伊豆北条館を訪れ頼朝に伝えたと言われています。

 

④山木館襲撃

頼朝は以仁王のと源頼政の挙兵後すぐには行動を起こしませんでしたが、平氏が各地の源氏を狙っているとの情報を得ると挙兵することを決心し標的を山木兼隆としました。

 

山木兼隆としたのは平氏と懇意の目代であったため、平氏に不満を持つ諸氏を味方にしやすかったことも一因でした。

 

迎えた817日、朝駆けする予定が狂い深夜の出発となりましたが、頼朝は北条時政らに山木の館を放火することを命じます。

 

激しい抵抗にあいながらも兼隆を討ち取り館に火を放ち、襲撃は見事に成功を収めることになります。

 

しかし、山木兼隆を討つも平氏の大軍による迎撃部隊が動き出していました。

 

石橋山の戦いの経過

(歌川国芳の描いた「石橋山の戦い」 出典:Wikipedia)

①布陣から決戦へ

山木館の襲撃に成功し伊豆を制圧した頼朝は、820日、三浦一族と合流するために相摸国土肥郷へ向かいます。

 

しかし、頼朝のわずかな兵に対して、平氏の大庭景親率いる迎撃軍は3000騎に及ぶ大軍でした。

 

823日、わずか300騎の頼朝軍は石橋山に布陣しますが、頼りにしていた三浦一族は大雨により増水した酒匂川で足止めされ合流が遅れます。

 

これを知った景親は三浦一族が到着する前に勝負をつけようと暴風雨の中で夜戦を仕掛けると、頼朝軍は大打撃を受けて敗走を余儀なくされます。

 

②敗走

大庭軍は頼朝軍を追撃しますが、大庭軍の飯田家義が頼朝軍を土肥の椙山へ導き逃避させました。

 

飯田家義は大庭景親と争った過去があり、この戦いでも重要な配置をされておらず景親に信頼されていなかったことがうかがえます。

 

また、家義はのちの富士川の戦いで源氏方として参戦し武勲を挙げることになります。

 

824日には頼朝軍はさらなる大庭軍の追撃にあうも、山中で抵抗しながら逃走を続けます。

 

そんな中、大庭軍の梶原景時は頼朝の所在を知るとこになりますが、「この山には人跡なし」と報じて大庭軍を別の山へ向かわせました。

 

 

(梶原景時 出典:Wikipedia)

 

 

景時はのちに降伏すると、能力の高さもあって頼朝に重用されて重責を担うことになります。

 

さらに山中で逃亡を続けた頼朝は、828日に真鶴岬から船で安房国へと脱出します。

 

③由比ヶ浜の戦い

豪雨の増水により到着が遅れていた三浦一族は頼朝の敗戦を知り引き返すことになりますが、824日に途中で平氏勢力の畠山重忠と遭遇します。

 

 

馬を背負う畠山重忠 出典:Wikipedia

 

 

和平となりかけますが結果的には双方ぶつかり合い合戦となり、激しい争いの末に停戦となります。

 

三浦一族は本拠地の衣笠城に戻りましたが、ほどなくして826日に重忠の軍勢が加勢とともに衣笠城を攻撃します。

 

すでに消耗していた三浦一族は衣笠城を諦めて頼朝軍と合流するべく安房国へ向かうこととなります。

 

これにより、817日に山木館襲撃に始まった激動の10日間は一旦の区切りとなります。

 

石橋山の戦いのその後

 

頼朝は安房国で三浦一族と合流すると、千葉氏上総氏といった房総半島の大きな勢力を味方につけて、わずか1ヶ月のうちに今度は数万騎の大軍として再び兵を挙げます。

 

102日に武蔵国に入り、4日には畠山重忠らを降伏させて、6日に鎌倉に入りました。

 

平清盛は頼朝追討の軍を関東に派遣しますが、駿河の富士川で源氏軍に大敗します。

 

このあと、清盛は福原京遷都を中断し、畿内での基盤を固めようとさまざまな手を打ちますが、西日本が大旱ばつで凶作となった養和の飢饉により打撃を受けました。

 

頼朝の従弟の源義仲信濃で挙兵し、11816月には北陸に進出し勢力を広めました。

 

 

(源義仲 出典:Wikipedia)

 

 

1183年に平氏が北陸に進軍すると、義仲は越中の倶利伽羅峠で撃破し、この勢いのまま京に向けて攻め上ります。

 

 

京では平氏に反旗をひるがえす武士や寺社が相次ぎ、11837月に平氏は歴代天皇が継承するとされる三種の神器を持ったまま都落ちすることになります。

 

源氏の内乱もあり福原に戻った平氏ですが、源氏の勢力は11842月に源義経の活躍により一ノ谷の戦いに勝利し、さらに戦力を整えます。

 

 

1185年2月には平氏の水軍に手こずる源氏でしたが、義経が讃岐国の屋島に背後から急襲し攻め落としました。

 

 

さらに、源氏は長門国の壇ノ浦に平氏を追い詰めて、11853月、平氏一門とともに安徳天皇は三種の神器を携えたまま海に身を投じ平氏の滅亡となりました。

 

 

これにより、一連の治承・寿永の乱の幕が閉じられます。

 

まとめ

 石橋山の戦いとは、1180年に相摸国で起こった源頼朝と大庭景親ら平氏との戦いのこと。

 平氏の専制的政治に対して不満の高まる中で、以仁王が挙兵し、源頼朝ら諸国の源氏に決起を呼びかけたことに始まる。

 石橋山の戦いでは敗れるものの反平氏の勢力をまとめ上げた頼朝を始めとして、全国各地で平氏打倒の挙兵が起こり、日本最初の全国的な内乱となった。

 この戦いが頼朝に関東に揺るぎない基盤をつくることとなり、鎌倉幕府の基礎となった。




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