【安政の改革とは】わかりやすく解説!!なぜ行なった?目的や内容・影響など

 

今回は安政の改革にはどのような目的があったのか、この改革によりどのように変わっていったのかについて、わかりやすく解説していきます。

 

安政の改革とは

(阿部正弘 出典:Wikipedia

 

 

安政の改革とは、天保の改革を行なった老中水野忠邦の失脚後、1853年(嘉永6年)に老中となった阿部正弘中心となって行なったの幕政改革(政治改革)です。

 

身分に関係なく外部から人材を登用したことにより、幕府としての力が分散されてしまった一連の出来事のことをいいます。

 

外国船やペリー来航等の影響もあり、国防のための軍事力強化を目的とし行われました。

 

江戸幕府の3大改革と言われる『享保の改革』『寛政の改革』『天保の改革』と並ぶ重要な改革のひとつです。

 

安政の改革に至るまでの背景

 

 

ペリーが日本に来る前から、すでに幕政改革の必要性を悟っており、幕府の権力を高めるために阿部正弘は、弘化(1845年~1848年)年間に入ると次々と改革を行いました。

 

中には、阿部正弘の幕政改革に反対する派閥も多く、そのため阿部正弘は当時主流派である譜代大名ではなく、非主流派である親藩や外様大名から支持を得て幕政改革を進めて行きました。

 

日本という概念ができる土壌となりました。

Check!!

親藩・・・徳川家の親族。

譜代大名・・・関ヶ原の戦い以前から徳川に従う。江戸幕府といえば、徳川家の譜代大名というほどの力を持っていた。

外様大名・・・関ヶ原の戦い以降、徳川に従う。

 

安政の改革の内容

 

 

日本近海には外国の船が続々とやってきます。

 

あまり真剣に考えていませんでしたが、幕府は異国船打払令(1825年)を出します。

 

 

その後、アメリカのペリー黒船でやってきました。

 

ペリーにとって日本は、鯨を取る船が立ち寄る場所、アジアに進出する新しい貿易ルートに丁度いい!と目をつけられていたため、日本を研究し準備万端でやって来たのです。

 

そして、幕府に大統領の国書を手渡し、1年後にまた来ると言い残して帰っって行きました。幕府はあたふたし、老中の阿部正弘に相談しました。

 

すると、阿部正弘はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、また身分を気にせず、親藩や発言権の無かった外様大名だけでなく庶民にも、意見を求めアイディアを集めたのです。

 

国防を充実させるための策として、韮山の代官、出川太郎左衛門に命じて江戸の守備を強化するために台場(砲台)を築き、反射炉も築きました。

 

そして、再度大艦隊を率いやって来たペリーは、開国を迫ってきたのです。

 

幕府の外交対策に対する対応の悪さは、今まで幕府を恐れ意見できなかったものたちを一気に勢いづかせ、幕府の権威が低下する結果となりました。その後、開国することとなりました。

 

 

阿部正弘が協力を得た・登用した人物

 

 

越前藩主の松平慶永、薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城らの開明的な藩主の協力を得ながら・・・

永井尚志

岩瀬忠震

川路聖謨

らの人材を登用しました。

 

彼らは、阿部正弘の死後も幕府を支える原動力となり、さらには明治時代においても新政府と日本を支え活躍をする人材となっていきます。

 

前水戸藩主の徳川斉昭を幕政に海防参与として参加させました。

 

安政の改革の影響

 

 

新しい事態に備え、日本の軍事力を増強していかなければならないため、身分に関係なく、人材の育成や能力のある人間を海防掛に就任させたりします。

 

長崎には、後世に海軍の母体組織で、洋式軍艦の操作を学ばせるための海軍伝習所を置き、江戸には、のちの陸軍中核組織となる幕臣(幕府の臣下。旗本や御家人など)とその弟子(若者)らに軍事教育を行う講武所を設けました。

 

他にも、軍事を中心とした洋楽の教育・和訳機関として1811年設置した蛮書和解御用が、1855年に洋学所と改称し、さらには1865年に蕃書調所と名を変えました。

 

また、諸藩に対して大船建造の禁を解く(大きい船を造ってはいけない)など海防の強化を命じます。

 

幕府はペリーと「仲良くしましょう」という取り決めである、日米和親条約1854に結びました。そして、下田函館の2港を開きました。また、他国の外交官が日本に常駐する耐性も始まります。

 

この条約は、日本の関税自主権がなく、アメリカの領事裁判権を認めるという不平等な条約だったのです。

 

その後、イギリス、ロシア、オランダと同様の条約を結ぶこととなり、鎖国は終わりを告げます。

 

ペリーが来る前から目をつけられていた日本

 

 

ペリーに先立つこと、7年前です。アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルの率いる黒船が、浦賀の都には入りませんでしたが、沖合いに姿を現していたのです。

 

ビッドルはとても紳士的で開港する意志があるかの反応を見ていました。

 

しかし、外交対策の悪い幕府はこれを門前払いしたのです。日本の態度の無礼かつ非常識極まりない態度に、アメリカの世論は激怒します。

 

そこで、選ばれたのがペリーとハリス(初代公使)です。日本人は話し合いに応じない人種であると考えられてしまっていたため、恫喝という手段で開港を求められ、せざるを得ない状況となったのです。

 

安政の改革に関連する出来事の年号・覚え方 

 

 

・安政の改革は1854年~1860年に行われた。

 

・1825年異国船打払令が出される。

【語呂合わせ】異国船、いやに強(1825)引、打ち払い

 

・1853年アメリカのペリーが浦賀に来航する。

【語呂合わせ】いやでござ(1853)る、黒船来航

 

・江戸幕府とアメリカが1854年に日米和親条約を結ぶ

【語呂合わせ】一夜越し(1854)、ついに開国、日米和親

 

まとめ

・老中阿部正弘が行なった政治改革を安政の改革という。

・江戸幕府の3大改革と言われる享保の改革・寛政の改革・天保の改革と並ぶ重要な改革のひとつである。

・アメリカの開港要求に対し、全国諸藩に意見を求め連携を強め、挙国一致の体制を作る。

・幕臣の中から、身分を問わず、能力や優秀な人材に重要な役割を与えた。

・諸藩に大船建造の禁を解いたり、様式の軍艦を国内建造や長崎に海軍伝習所を創設したり、講武所の創設などといった近代化政策を行う。

・ペリーが浦賀に来航し、日米和親条約を結ぶ。

・下田と函館の2港を開く。

・新しい事態に備えて軍事力の強化をはかる。