明治時代、日本が一番努力したことは1858年に結ばれた日米修好通商条約の不平等な内容をなくすことでした。
しかし、その不平等な内容の一つである関税自主権が回復したのは条約が結ばれてから53年後の1911年(明治44年)のことでした。
なぜ関税自主権が回復するのにこんなに時間がかかったのでしょうか?
今回は明治政府が総力を挙げて回復させた『関税自主権の回復の流れ』をわかりやすく説明していきます。
そもそも関税自主権とは?
(貿易風景 出典:Wikipedia)
関税自主権とは、1858年(安政5年)に結ばれた不平等条約の一つで、自分で関税を作ったり無くしたりすることができる権利のことです。
関税は国のお金儲けのために作られることもあるんですが・・・
それ以上に外国から安く手に入れることができる商品がやってきたせいで、国内の産業が潰れるのを防ぐためにわざと関税をかけ、外国の商品を国内で作られた商品と同じ値段するために作られることもありました。
関税自主権は国の産業の発展や守るために必要だったのです。
この不平等条約は、1911年(明治44年)に小村寿太郎の活躍により回復することになります。
ここからは、回復までの詳しい流れを解説していきます。
関税自主権がない日本
日米修好通商条約によって日本は関税を自由に作ることができなくなってしまいました。
関税を作るときはアメリカやイギリスに相談してから決めなければいけなくなり、言いなりなることもしばしばありました。
条約が結ばれた最初の頃は輸出関税は5%、輸入関税は20%となっていましたが、1866年孝明天皇は外国に脅されて諸外国と改税約書を調印します。
これは条約で開港の約束をしていた神戸を開港させなかった見返りとして輸入税率を5%に引き下げるというものでした。
こうして、この後日本には欧米から安価な商品が流れ込む状況が生まれていました。
そして日本にはこの頃産業革命によって大量に作られたイギリス製の綿製品によって日本の産業が壊滅的な被害を受けてしまいます。
そして、日本の産業がダメになってしまったことによって日本の経済は大混乱してしまい、各地で世直し一揆などが続発するようになってしまいます。
また、時代は江戸時代から明治時代に変わり、日本の政治が明治新政府の手に渡ると早速政府はこの日本にとっても不平等であった関税自主権の回復について、外国と交渉していくことになるのです。
関税自主権の回復の兆し
時代は流れ1900年代に突入すると日本は富国強兵や殖産興業によって急激な近代化を達成します。
この近代化のスピードが当時の列強もびっくりするレベルで、開国してからわずか20年ぐらいでアジアで初めての近代的な憲法を制定するなど着々と文明国として成長していきました。
そしてさらに転機が。なんと日本はあの当時陸軍最強と呼ばれていたロシアに日露戦争でなんと勝ってしまったのです。
これには列強諸国も『あれ?日本って普通に強くね?』と思うようになっていきます。
そしてこれをチャンスと見た日露戦争の講和条約であるポーツマス条約を結んだ小村寿太郎は、アメリカと関税自主権について交渉していくことになるのです。
小村寿太郎とは
(小村寿太郎 出典:Wikioedia)
小村寿太郎は1855年に日向国(今の宮崎県)に生まれます。
この小村寿太郎という人はとても頭が良くて藩の推薦を受けて東京大学の前身の大学南校に入学しました。
そしてその頭の良さは外務省にも伝わり、小村寿太郎は第一回アメリカ留学生としてアメリカのハーバード大学に留学しました。
しかし、小村寿太郎には少し欠点がありました。
それは156センチと当時として見たらとても小さかったこと。今の日本人の平均身長が大体165センチなのでかなり小さかったと言われます。
しかし、小村寿太郎は頭が良くてこの身長をネタにした逸話が数多く残されています。
例えば、当時の海軍大臣であったあの西郷隆盛の弟である西郷従道が小村に対して「その身体で外国人の中にまじったら、子どものように思われましょう」と言います。
すると小村は「大丈夫です。私は日本を代表して行くのですから、日本は小さくても強いですからね」と答えたそう・・・。
さらに!日清戦争の講和条約である下関条約を結ぶ時、下関条約の全権である李鴻章に・・・
「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか?」と身長のことをバカにされ・・・
「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国では『大男 総身に智恵が回りかね』などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」
と返答した逸話も残っています。
小村寿太郎はこのように身長を気にすることなく頭の良さを活かしてうまく切り返すことができました。
関税自主権の回復
(セオドア・ルーズベルト 出典:Wikipedia)
当時、アメリカの大統領であるためセオドア・ルーズベルト大統領は小村寿太郎の交渉術を高く評価していました。
さらにルーズベルト大統領は昔の5000円札の人である新渡戸稲造が書いた『武士道』という本をよく読んでおり、いわゆる親日家と呼ばれるぐらい日本に肩入れしていました。
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約を仲介したのもこの人です。
小村寿太郎は日露戦争で見事に勝利したことやアメリカの大統領が日本好きというのを見て『これはチャンスだ!』と思い交渉に踏み切ります。
さらに小村は日本人移民がアメリカで反感を買っていたことも目をつけ、関税自主権を回復させてくれたら移民を日本に帰らせるという見返りもつけました。
そして、この小村の作戦はうまくいき、日本は日米修好通商条約が結ばれてか53年後の1911年(明治44年)に日米通商航海条約を結んで、見事に日本は完全に関税自主権を回復させることに成功します。
そして日本がアメリカと条約を結んだことによって、イギリスやフランスとも関税自主権の回復が含まれている新しい条約を結んでいきます。
日本はついに欧米列強と肩を並べるいわゆる一等国として国際社会で影響力を持つ国になっていくことになるのです。
まとめ
✔ 日本はアメリカと日米修好通商条約を結ぶが関税を自由に決める権利である関税自主権が日本にはなかった。
✔ 日本は関税自主権がないことによって産業がめちゃくちゃになってしまった。
✔ 関税自主権は小村寿太郎によって回復することに成功した。
✔ 関税自主権が回復したことによって日本は欧米列強に並ぶ一等国と呼ばれることになった。