抗日民族統一戦線とは日中戦争に至る過程の中で作られた中国国民党と中国共産党による協力関係のことを言います。

 

日中戦争前後の中国は政党同士による内戦が起きていました。しかし、日本の中国侵略・領土拡大と共に水と油である国民党と共産党がどのように手を結んだのでしょうか。

 

今回は現代の歴史にも影響を及ぼした出来事、「抗日民族統一戦線」について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

抗日民族統一戦線とは?

 

 

抗日民族統一戦線とは、1937年(昭和12年)に中国国民党と中国共産党によって作られた協力関係のことを言います。

(※第二次国共合作と呼ぶこともあります)

 

1937年は盧溝橋事件をきっかけに日本との戦争に突入した年です。

 

元々国民党と共産党は10年近く内戦をしており(国共内戦)、日本と戦う以前にそれぞれが戦闘を続けていました。

 

国民党は共産党に対して何度か攻撃を行い、共産党は壊滅寸前まで追い込まれていました。

 

そのような中で両党に対し大きな影響を与える事件が起こります。それが1936年の西安事件です。

 

この事件を機に内戦は終わり、抗日運動の名のもとにイデオロギーの異なる二つの政党が手を取り合っていく事になります。

 

そして戦後になり、日本を倒すという目標を失った両党は再度内戦の道を進んでいく事となります。

 

この協力関係が現在の中国の運命を決めたといっても過言ではなく、中華人民共和国の設立や、国民党が台湾に移ることになった理由の一つとなりました。

 

抗日民族統一戦線が結成された背景

 

 

抗日民族統一戦線について深く知る前に知っておくべきことがあります。

 

それは中国の国民党・共産党についてと、日本がどのように関わっていたかという事です。

 

①統一戦線を作る前の中国国民党とは

国民党は1919年に孫文が作った政党です。ベースにあった中華革命党を改組して作られました。

 

 

(孫文 出典:Wikipedia)

 

 

その時代は第一次世界大戦後で、日本がドイツから山東省の権益を譲り受けた(パリ講和会議)時でした。

 

そのため「反日愛国運動」が盛り上がっていた時期となります。

 

指導者である孫文もその運動に影響され、対立していた軍閥・北京政府に対抗する共同戦線として共産党と協力関係を結び第一次国共合作を成し遂げました。

 

しかし孫文の死後、国民党の指導者となった蒋介石は、北伐を開始。これにより軍閥や北京政府を圧倒していきます。

 

 

また1927年に上海クーデターが起こります。

 

これを機に国民党は南京政府を樹立。第一次国共合作は終わりを迎え、第一次国共内戦へと突入しました。

 

②統一戦線を作る前の中国共産党とは

中国共産党は1921年に結成されコミンテルンの指導の下、孫文らの国民党と第一次国共合作を結びました。

 

しかし、前述した蒋介石のクーデター(上海クーデター)によって内戦状態となりました。

 

コミンテルンは主に大都市の労働者による武力闘争を革命の軸として考えていたのですが、中国特有の農民主体であることを理解せずに進めたため、十分な対抗組織となりえる事はなく武装蜂起は鎮圧されていました。

 

その中で唯一農民への扇動を果たしたのが毛沢東でした。

 

 

(毛沢東 出典:Wikipedia)

 

 

1931年に江西省で「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立しましたが、国民党軍の攻勢に抵抗できず1934年には長征に出る事となりました。

 

③日本の状況

日本は第一次世界大戦以後、戦後恐慌・震災恐慌・金融恐慌・昭和恐慌と度重なる恐慌により経済的な冷え込みがみられました。

 

その中で日本は権益を中国に求めます。

 

中華民国軍による万直事件(日本・英国の船舶襲撃事件)が起き、幣原外交が終わりを迎えましたが、田中義一内閣により東方会議で広東軍による山東出兵(1927~1928年)の実行と、満州における実力者であった張作霖の懐柔を行われました。

 

国民党軍が北伐を再開しましたが、済南事件の影響を受け山東への進軍は避け北京へ向かう事になります。

 

その結果、北京政府が国民党により倒された事で張作霖の影響力は低下し、見限った関東軍によって張作霖爆殺事件が起こります。

 

 

この頃より日本における軍部の暴走は止められなくなり始めました。

 

1931年の犬養毅内閣時には関東軍の独断によって起こされた柳条湖事件を機に満州事変が起き、日万議定書によって1932年に満州国が設立されました。

 

 

1933年には国際連盟を脱退するなど、日本は国際的な孤立を深めていくと共に軍国主義を進めていくことになりました。

 

 

抗日民族統一戦線の内容詳細

 

 

日本が中国への影響力を高めていく中で、中国は依然として国共内戦を続けていました。

 

満州事変などから中国国内でも反日・抗日の運動は進んでいきましたが、国民党総裁であった蒋介石が反共にこだわり、内戦は続きました。

 

そして共産党は国民党軍の攻撃により壊滅間近となっていました。その中で方針を翻すきっかけとなる西安事件が起こります。

 

①西安事件

西安事件は1936年12月に起こった事件で、蒋介石の監禁事件です。

 

中心となったのは張学良と楊虎城で、国民党の人間です。事件の名前は現場である中国、西安に由来しています。

 

 

張学良と蒋介石 出典:Wikipedia

 

 

張学良は、実父である張作霖の爆殺を機に国民党、蒋介石支持を明らかにしていました。

 

しかし、度重なる共産党との戦闘により自軍が多く被害を受けた事などを機に1936年には共産党の有力者、周恩来と会合を開くなど、共産党との関係を深めていました。

 

また、楊虎城は地方の軍閥出身で、蒋介石の作戦に対し疑念を持っていたようでした。

 

そのような中で、西安事件は起こります。そして張学良は監禁に成功し、蒋介石に八項目の要求を突きつけました。

 

監禁された当初は蒋介石は張学良から突き付けられた要求に拒否していましたが、共産党の周恩来ら要人が西安に来たことで流れが変わります。

 

その場で蒋介石を含めた国民党の面々と会合し、結果的に要求を呑む形で開放されました。

 

西安事件については、関係者の誰もがその内容について語らず、どのような話し合いがなされたのかは不明となっています。

 

②抗日民族統一戦線(第二次国共合作)の実現

西安事件後、共産党側からは国民党への対日抗戦を迫ると共に、共産党の指揮権を国民党に委ねる形としました。

 

国民党側の態度は以前として硬化したままで、共産党への攻撃を続けたため、1937年の6月には共産党を壊滅寸前にまで追い込みました。

 

しかしその翌月、日本との間に盧溝橋事件が勃発。それをきっかけに日中戦争が開戦されたことから、国民党は共産党の殲滅に力を注ぐことが出来なくなります。

 

 

盧溝橋事件後、蒋介石は日本との戦争に対して慎重で日本との折衷案を考えていたようでした。

 

盧溝橋事件の後は小競り合いのような戦闘が続き、8月に起きた第二次上海事件をきっかけに日中戦争は本格化します。

 

これにより第二次国共合作が成立することになりました。

 

抗日民族統一戦線の結果

①統一戦線を結んだ結果

統一戦線が結ばれたことにより、日本との戦争に進んでいく事となります。

 

国民党が前面に戦闘に出る一方で、共産党は日本と戦闘していない地域に進出する事で兵力を蓄えていきました。

 

また農村などでの扇動活動により、徐々に大衆への支持を得る事となります。

 

さらに統一戦線が作られたことにより、米ソからの支援が受けられるようになっていきます。

 

そして第二次上海事変をきっかけに中ソ不可侵条約が締結。共産党を通じてソ連は積極的に介入していきました。

 

アメリカも日本の領土拡大などに対して危機感があり、国民党を介して様々な援助をしていきます。

 

②統一戦線の戦後の動向

日本との戦争が1945年8月に終わったことで、統一戦線を継続する理由がなくなりました。

 

その後アメリカにより停戦の協定が結ばれましたが、結局再度内戦する事となります(第二次国共内戦)。

 

共産党側は戦中に戦力を蓄えていただけでなく、大衆からの支持を得ていました。そしてソ連とモンゴルの支援を受けて軍事的に優位に立っていきます。

 

一方の国民党軍は日本軍と全面的な戦闘をしたこともあって戦力が消耗していただけでなく、アメリカの援助が打ち切られた事もあって軍事的に厳しい状況に追い込まれました。

 

その結果、国民党と共産党の内戦は1949年に終結。共産党が勝利し、中華人民共和国が成立する事となりました。

 

そして、敗れた国民党は台湾へと移る事となります。

 

これにより二つの中国が生まれるという、新たな問題が生じる事となりました。

 

まとめ

 中国国民党と中国共産党は長い間、内戦状態にあった。

 日本は中国に権益を求め、関東軍を軸として侵略が行われていった。

 西安事件をきっかけとして、国民党と共産党は抗日民族統一戦線を成立させていく事となった。

 太平洋戦争後に統一戦線は解消され、第二次国共内戦が生じた。共産党が勝利し中華人民共和国を成立させ、敗れた国民党は台湾へと移る事になった。

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