日本最古の成文法と言われる『十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)』。
聖徳太子が制定したとされていますが、どの時期に成立したのか現在でもさまざまな議論があるようです。
今回は、十七条の憲法が作られた背景・目的や内容などをわかりやすく解説していきます。
目次
十七条の憲法とは
(厩戸王 出典:Wikipedia)
十七条の憲法とは、604年に厩戸王(うまやどおう/のちに聖徳太子と呼ばれる)が制定したと伝えられている17の条文のことです。役人や豪族が守るべき道徳が書かれていて、その内容は仏教や儒教の影響が強く見られます。
(※十七条の憲法は、「憲法十七条」、「十七条憲法」とも言われます。)
720年に成立した『日本書紀』に全文が掲載されているのですが、原本は残っておらず、本当の成立時期や作者ははっきりとはわかりません。
十七条の憲法が作られた背景・目的
(推古天皇 出典:Wikipedia)
①第1回遣隋使の失敗
十七条の憲法が作られたのは推古天皇(大王)の時代です。当時は蘇我馬子(そがのうまこ)が実権を握り、厩戸王も政権に参加していました。
大和朝廷は600年と607年に遣隋使を送っています。当時は新羅への遠征が計画されていて、国際情勢が緊迫していた時期。そこで中国大陸に使者を送って、強大な隋との外交を試みたわけです。
しかし、600年に第1回遣隋使が隋に派遣され、皇帝に倭国の政治や風習について説明したところ、隋の皇帝から理解が得られず、成果もなく帰国するという結果に終わってしまいました。
②国家の制度作り
そこで大和朝廷は急いで国としての体裁を整える必要に迫られたわけです。
国家には明確化されたルール、つまり法が必要です。
慣習によるルールではなく、文章として書き残された法のことを成文法(せいぶんほう)と言いますが、大和朝廷による独自の成文法を作るということが課題となったのです。
それも従来の制度では隋の皇帝に理解してもらえなかったので、他の国の人にも理解されるような思想に基づいて作る必要がありました。
十七条の憲法と共に厩戸王が制定したとされる冠位十二階も、同じようにちゃんとした国の制度があることを世界にアピールする狙いがあったのです。
十七条の憲法の内容
①条文の内容
十七条のうち、特に有名なのが最初の三条です。その冒頭部分を紹介しましょう。
一「和を以て貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」
二「篤く三宝を敬え(あつくさんぽうをうやまえ)」
三「詔を承りては必ず謹め(みことのりをうけたまわりてはかならずつつしめ)」
(出典:Wikipedia)
②条文の意味
第一条の「和を以て貴しとなす」とは、和を尊重しなさいという意味です。
第二条の「篤く三宝を敬え」とは、仏教を敬いなさいという意味です。
「三宝」とは仏・法(仏の教え)・僧(お坊さん)のこと。厩戸王は仏教を熱心に信仰したことで知られています。
第三条の「詔を承りては必ず謹め」は、詔つまり天皇(大王)の命令を受けたら謹んで従うようにということです。
つまりは天皇(大王)への服従を説いています。このあたりには儒教の影響が強く見られます。
この他にも賄賂をもらってはいけないとか、早く出勤して遅く退出しなさいとか、重要なことは独断で決めず議論をつくすべきなどといったことが書かれています。
③十七条の憲法の性格
「憲法」といっても、実際には法というよりも公務員の心得みたいなものだと言ってよいでしょう。
その内容は仏教・儒教・法家(法を重視した中国の思想)の思想が取り入れられています。
現在では「和を以て貴しとなす」が日本文化を象徴するような言葉だと言われることがありますが、この言葉自体は中国の『論語』(もしくは『礼記』)から引用されたものです。この他にも中国の書籍から多くの言葉を引用しています。
こうした中国の思想を取り入れた法を作ることで、隋などに自分たちの国は進んだ国だとアピールしようとしたのです。
十七条の憲法についての議論
(日本書紀 出典:Wikipedia)
①後世の創作説
厩戸王の時代に作られたと『日本書紀』に書かれている十七条の憲法ですが、現在では異論があります。
条文の中に「国司(こくし)」という言葉があるのですが、これはずっと後になってからできた制度で、厩戸王の時代にこの言葉を使っているはずがないというのです。
制度がなくても言葉自体は存在したという可能性も否定できませんが、少なくとも十七条の憲法のうち一部はのちの時代に創作されたものであるという説が有力です。
ただ、すべての条文がのちの創作であるという証拠はなく、教科書にも604年制定と載っています。
②厩戸王(聖徳太子)の作なのか?
(聖徳太子が描かれた思われる肖像画 出典:Wikipedia)
厩戸王が作ったとされますが、これも現在では否定する説が出ています。
そもそも「聖徳太子」と呼ばれる人物の功績はほとんどが後の世に作られたもので、「聖徳太子虚構説」まであるぐらいです。
しかし「厩戸王(聖徳太子)が作ったと伝えられている」のは事実なので、多くの教科書や歴史書にそのように記述されています。
十七条の憲法の影響
①第2回遣隋使
607年、小野妹子(おののいもこ)が第2回の遣隋使として隋に派遣されます。
この時も倭国の王を「日出づる処の天子」と表現したため、隋の皇帝・煬帝(ようだい)を怒らせてしまいますが、隋と国交を結ぶことができました。
その背景には朝鮮半島の高句麗(こうくり)が強大化し、倭国まで敵に回したくないという思惑がありました。
しかし、ともかく目的であった隋との外交には成功したわけです。これ以降も何度か遣隋使を派遣し、仏教などの文化を輸入しました。
②後世への影響
こうして作られた十七条の憲法ですが、実際には国内でそれほど効果があったわけではないようです。
しかし、『日本書紀』に書かれた条文はずっと後の時代になって影響を及ぼしました。
例えば、室町時代の「建武式目(けんむしきもく)」は十七条からなります。
また、鎌倉時代の「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」は五十一条ですが、これは17の三倍だからと言われています。
江戸時代の「禁中並公家諸法度」も十七条で、近世にまでその影響が見られます。
③近代憲法との違い
最後に「日本国憲法」などの近代憲法との違いについて見ていきましょう。
近代の憲法は、国民の権利を保護し、国の権力を制限するという役割を持っています。
一方、十七条の憲法は国が定めた役人や豪族が守るべき道徳的な規範です。
近代日本の「憲法」という言葉は、明治時代に英語のconstitutionの訳語としてつけられました。たまたま同じ「憲法」という言葉が使われているだけで、十七条の憲法と近代的な憲法は全く別の由来を持ったものなのです。
まとめ
・十七条の憲法は604年に厩戸王(聖徳太子)が制定したと伝えられている。
・第1回遣隋使の失敗後、対外的に国家の体制を示す必要から作られた。
・第一条は「和を以て貴しとなす」。
・官吏や豪族の道徳的な心得を示したもの。
・内容は仏教や儒教、法家の影響を受けている。