【寧波の乱とは】わかりやすく解説!!反乱が起こった背景や内容・結果・語呂合わせなど

 

室町時代中期以降、勘合貿易の利権をめぐって国内で対立が起きていました。

 

その対立が頂点に達したのが、寧波の乱と呼ばれる暴力事件です。

 

今回は、この『寧波の乱(ねいはのらんorにんぽーのらん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

寧波の乱とは?

(現在の寧波市の位置 出典:Wikipedia

 

寧波の乱とは、1523年の遣明使派遣の際に、中国・明の寧波(ニンポー)で起こった暴力事件のことです。

 

遣明使として派遣された守護大名の大内氏の使節が、同じく遣明使として派遣されていた守護大名の細川氏の使節に対して、殺害や放火を行いました。

 

大内氏と細川氏の背後には、それぞれ博多商人堺商人がついていたことから、この事件は日明貿易の利権争いが発展したものと言えます。

 

この事件を受けて、明は役人の腐敗を取り締まり、日明貿易の規制を強化しました

 

寧波の乱が起こった背景

①勘合貿易

室町時代における日本と中国・明との間の貿易(日明貿易)は、日本が明に使節を送り、明の皇帝に貢ぎ物をする代わりに皇帝が日本の使節に下賜品を与えるという朝貢貿易の形をとっていました。

 

当時は倭寇と呼ばれる海賊が活発に活動していたので、正規の遣明船を倭寇から区別するために、勘合という証明書が使われていました。

 

 

勘合とは、1枚の証明書を半分に割いたものですが、片方を明の役人に、もう片方を遣明使に持たせておきました。

 

そうすることで、遣明船が明に来航したときに、その2つを突き合わせて、お互いが倭寇でないことを確かめられるようにしていたのです。

 

このことから、当時の日明貿易は勘合貿易とも呼ばれるようになりました。

 

 

②細川氏と大内氏の対立

遣明船の派遣は当初、室町幕府が直接行ったほか、山名氏、大内氏、細川氏、斯波氏などの有力な守護大名や、天龍寺、相国寺、大乗院などの大寺院が行いました。

 

明との貿易は莫大な利益を得ることができたため、遣明船は回数を重ねるごとに大規模になっていきました。

 

しかし、毎回大規模な船団が来航すると、明の側で下賜品を用意する負担が膨れ上がってしまうため、明は遣明船の規模を制限するようになります

 

これにより、遣明船の派遣は、10年に1度となり、船数は3隻、人数は300人に限られました。

 

そこで、次の遣明船派遣に際しては、幕府、大内氏、細川氏がそれぞれ1隻ずつ派遣するという割り当てになりました。

 

ところが、1467年に起こった応仁の乱により、幕府の影響力が弱まると、大内氏と細川氏の間で遣明船派遣の利権争いが起こるようになりました。

 

このとき、西国に勢力を得ていた大内氏の背後には博多商人、近畿・四国に領国を持っていた細川氏の背後には堺商人がいました。

 

したがって、この利権争いは単なる守護大名どうしの勢力争いではなく、商人集団を巻き込んだ既得権争いの側面が強かったと言えます。

 

寧波の乱の内容

①2つの遣明船

室町幕府が弱体化していた中、1523年の遣明船は、大内氏と細川氏がそれぞれ独自に派遣する事態になりました。

 

大内氏の遣明船は、前回の渡航の際に明から受け取った新しい勘合を持っていました。

 

謙道宗設という僧を正使として、3隻の遣明船で300人強が博多から派遣され、427日に寧波に到着しました。

 

ところが、大内氏と対抗していた細川氏も幕府からすでに無効となっていた古い勘合を得て、独自に鸞岡瑞佐を正使とする100強の遣明船1隻を派遣してしまいます。

 

この遣明船は、大内氏の遣明船から数日遅れで寧波に到着しました。

 

②大内氏側に対する差別待遇

当時、寧波の海上貿易は、市舶司という役所が管轄していました。

 

市舶司は本来であれば、船が入港した順にしたがって、荷物の陸揚げや点検を行うはずだったのですが、どういうわけか先に到着した大内氏の遣明船ではなく、遅れてきた細川氏の遣明船の手続きを先に行いました。

 

さらに、歓迎会での席次も、なぜか細川氏側の正使である鸞岡瑞佐の方を大内氏側の謙道宗設よりも上座に定め、宿泊施設についても細川氏側の方を一方的に厚遇しました。

 

このように細川氏側だけに便宜が図られたのは、細川氏側の副使だった中国人商人の宋素卿が寧波到着後すぐに市舶司の役人に賄賂を送っていたからでした。

 

③暴力事件の発生

しかし、こうした差別的な待遇は大内氏側からすれば納得がいきません。

 

これに怒った大内氏側の正使・謙道宗設は、51日に寧波市舶司の倉庫から武器を持ち出して、なんと細川氏側の鸞岡瑞佐を殺害し、細川氏の遣明船を焼き払ってしまいます

 

それでも怒りが収まらなかった宗設は、逃亡した宋素卿を紹興まで追いかけましたが、結局捕まえることができなかったため、腹いせに帰り道の沿道で放火を行いました

 

さらに、その取り締まりにやってきた明の役人を殺害し、船を奪って海上に逃げ去りました

 

この一連の暴力事件が寧波の乱と呼ばれます。

 

寧波の乱の結果

①処罰の内容

寧波の乱は、日本の外交使節が中国で大規模な暴力事件を起こすという前代未聞の出来事でした。

 

主な原因は、明の役人の腐敗と日本国内における利権争いでした。

 

これにどのように対処するのかが明にとって重要な問題となりました。

 

まず、明の役人の腐敗については、賄賂を送った側の宋素卿の処遇をどのようにするのかが争点となりました。

 

当初、明の政府内には、宋素卿をかばう声もありましたが、しだいに厳罰を求める声が強くなってきたため、宋素卿は捕らえられて獄死しました

 

また、実際に賄賂を受け取った役人が就いていた市舶大監という役職も廃止されました

 

この役職は、明の中央政府から市舶司へ派遣された役人が就いていた役職でした。

 

他方、利権争いから暴力事件を引き起こしてしまった日本側への対応については、明の政府内では一切の貿易を禁止する強硬論も出ましたが、結局その処置は採らず、琉球王国を介して、日本側に抗議の意思を伝えた上で、犯人の引き渡しを求めるにとどめました。

 

 

しかし、その一方で、日本の遣明船派遣に対しては、厳しい規制を加えるようになりました

 

②大内氏の日明貿易独占へ

寧波の乱以降、日明貿易は大内氏が独占するようになりました

 

実際、1540年と1549年の2回、大内氏が遣明船を派遣しました。これにより、大内氏は莫大な利益を得ました。

 

しかし、栄華を極めた大内氏も、1550年代になると、国内遠征の失敗や一族の内紛のため、急速に勢力を落としていきます

 

結局、1549年に派遣した遣明船が、最後の勘合船となりました。

 

寧波の乱の語呂合わせ

 

寧波の乱が起きたのは、1523年です。そして、寧波の乱以降は、遣明船派遣は大内氏が独占するようになりました。

 

「以後(15)、積み(23)荷は大内氏」

 

と覚えるようにしましょう!

 

また、そのちょうど20年後に当たる1543年は、種子島に鉄砲が伝来した年です。

 

「以後(15)、よさん(43)一騎討ち」などの語呂合わせで知られているとおりです。これと関連づけると、さらに覚えやすくなります。

 

まとめ

 寧波の乱とは、1523年の遣明使派遣の際に、中国・明の寧波で起こった暴力事件のこと。

 遣明使として派遣された守護大名の大内氏の使節が、同じく遣明使として派遣されていた守護大名の細川氏の使節に対して、殺害や放火をした。

 大内氏と細川氏の背後には、それぞれ博多商人と堺商人がついていた。

 そのため、この事件は日明貿易の利権争いが発展したものと言える。

 この事件を受けて、明は役人の腐敗を取り締まり、日明貿易の規制を強化した。