何か大切なことをしたいときは外見だけでも良くしようとする人は沢山いると思いますが、実は日本もそういうことをやったことがあったのです。

 

今回はそんな日本の涙ぐましい努力『欧化政策(おうかせいさく)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

欧化政策とは?

(鹿鳴館での舞踏会の様子 出典:Wikipedia

 

 

欧化政策とは、明治時代に日本が欧米国のような文明国であることを他国に示すために進められた政策のことです。

 

この欧化政策における中心人物はズバリ「井上馨」です。

 

ここからは欧化政策が行われた背景や内容・その後など、詳しく解説していきます。

 

欧化政策が行われた背景

(岩倉使節団)

 

 

江戸時代が終わり、明治時代に入るとまず日本政府は列強国と結んでいた不平等条約を改正しようとしていました。

 

しかし、最初に交渉した岩倉使節団はこの不平等条約を改正することに失敗してしまいます。

 

そこで、日本は民衆や政府が西洋のさまざまな文明を取り入れ、日本をヨーロッパと同じ文明が発達している国にしようとしました。

 

ようは欧米国になめられないための政策を行う必要があったのです。

 

民衆の欧化政策

 

日本は民衆の間でさまざまな西洋の文化が入ってきます。

 

内容は食文化、服装、生活様式などさまざまにわたりました。一体どんなことになったのでしょうか?

 

①食文化の変化

明治時代に入るとさまざまな西洋の文明利器が入ってきたことにより、民衆の生活はガラリと変わります。

 

例えば、この頃になると民衆の間でこれまで食べられなかった牛を食べるようになります。

 

特に『牛鍋』(今のすき焼きだと思ってくれればわかりやすい)は東京の至る所で店があるぐらい大流行しました。今でもお馴染み『あんパン』もこの頃に生まれます。

 

②服装の変化

明治時代には政府の公式な正装は着物からドレスに変わります。

 

さらに郵便局員や駅員なども次々に洋式化していきました。民衆の間でも断髪令が出されたのを機にどんどん洋服を着始めていきました。

 

『散切り頭を叩いてみたら文明開化の音がする』は小学校でも習ったと思う有名なフレーズだと思いますが、この時代に作られた歌です。

 

③生活様式の変化

明治時代に入ると日本の建築様式を残しつつ洋風の建物に見せかけた『擬洋風建築』が流行ります。

 

銀座や横浜なのではレンガ式の建物が建ち始めます。赤レンガ倉庫は有名ですね。

 

また、歯磨き粉やランプなど生活必需品もこの頃に日本に浸透。

 

他に人々を大いに助けてくれた物があります。それが火をつけるのでおなじみのマッチでした。

 

それまでは火打ち石などを使って火をつけていたのですが、とんでもなく時間がかかり重労働でした。

 

しかし、マッチのお陰で火を簡単につけられるようになってとても楽になりました。

 

政府の欧化政策

このように日本は明治時代に入るとさまざまな西洋の文明を取り入れて急速に文明を開花させました。

 

しかし、日本には取り組むべき大きな課題がありました。不平等条約の改正です。

 

日本は江戸時代末期アメリカをはじめ五ヶ国と条約を結びます。この条約の内容は日本にとってとても不利でした。

 

そのため、日本政府はこの条約の改正が悲願でもあったのです。しかし、岩倉使節団の交渉はうまくいかず失敗してしまいます。

 

そこで1879年に外務卿(外務大臣)になった井上馨(いのうえかおる)は日本が欧州みたいに文明が発達したことを海外に知らしめるために欧州の文明を積極的に取り入れることをしました。

 

 

欧化政策と鹿鳴館

(1883年完成。鹿鳴館 出典:Wikipedia

 

 

井上が洋式化するために最初に行ったことは洋風建築な迎賓館(パーティーするための館)の建てました。それが鹿鳴館です。

 

ここでは毎晩西洋風のパーティーやダンスパーティーを行いました。

 

井上はこのようなことをして外国人に日本の文化の発展をみせつけようとしたのです。

 

しかし、上っ面だけ変えても意味がないということは外国人も分かっています。

 

さらに日本人はこの頃西洋のルールやマナーを知らず日本人は度々赤っ恥をかいていました。

 

外国人はこの様子を見て「日本は西洋の猿真似しかしておらず、まさに滑稽だ。」と日記に記しています。

 

ビゴーの絵を見てみればこの当時外国人がどのようにして日本を見ていたことがわかります。

 

(ビゴーが描いた日本人。鏡に映る猿の顔)

 

欧化政策の反抗と国粋主義のおこり

もちろんそんな日本の目も当てられないような様子を民衆は黙って見ていません。

 

当時民衆は『自由民権運動』の真っ最中であり国民全体が政治に関心を示していました。

 

 

しかし、政府のこの有様を見て民衆や一部の政治家は『弱虫外交』『軟弱外交』と批判していきます。

 

さらに民衆はこのままじゃ日本の主権がどんどんなくなり、最終的にはヨーロッパの植民地になるのではないかと思うようになります。

 

こうして民衆は日本に誇りを持つようになっていきます。これが国粋主義のおこりでした。

 

さらに、三宅雪嶺は日本文化は欧米文化より優れているのだから欧化政策は必要ないという考え方である『国粋保存主義』を唱えました。

 

欧化政策の終焉

(メンザレ号の救助。ボート上の船長は「いまいくら持っている?早く言え」と言っている)

 

 

そんな批判を無視して井上は条約改正を目指して交渉を始めます。

 

この時ノルマントン号事件という事件が起こります。

 

 

この事件は和歌山沖でイギリスの船が沈没した時にイギリス人船長が日本人全員見殺しにした事件です。

 

日本は領事裁判権がなかったためイギリス人船長を裁くことができませんでした。

 

 

しかし、民衆の間ではこの事件には大ブーイング。民衆は一時は諦めかけていた条約改正を絶対にしなければならないという意識が生まれることになったのです。

 

そして、条約改正のための交渉が東京で行われました。

 

アメリカはこの条約改正に肯定的でしたが、イギリスは条約改正に真っ向から否定的でした。

 

そこで井上は日本は領事裁判権の撤廃を行わせる代わりに日本人の裁判官の半分を外国人に変えること、そして外国人が自由に日本に住める権利を与えるなどの妥協案を認めます。

 

しかし、民衆や政治家は『この妥協案は日本の主権を外国に売り渡すことだ!』と猛批判します。

 

そしてその批判の矛先は欧化政策を推進して鹿鳴館と妥協案を出した井上に向けられました。

 

結局井上は外務卿を辞めざるおえない状態に陥り辞職しました。

 

欧化政策のその後

井上が辞めた後外務卿は伊藤博文は引き継ぎました。

 

この頃日本は『大日本帝国憲法』を発布してアジア唯一の立憲国家となりました。

 

 

これを見て列強国は「日本はもう西洋みたいな状態に成長した」と思いはじめました。

 

そして日本も欧化政策を過度に推進するより日本のいいところを残しつつ、西洋の文明を取り入れることが一番と気づき、日本はどんどん成長していくことになるのです。

 

まとめ

 欧化政策とは、明治時代に日本が欧米国のような文明国であることを他国に示すために進められた政策のこと。

 日本は明治時代に入ると衣食住の西洋化が進んでいった。

 日本は文明開化したことを知らしめるために鹿鳴館を建てたがうまくいかなかった

 欧化政策に反抗して国粋主義が成長していった。

 最終的には政府内の反発によって井上は外務卿を辞めさせられた。

 日本は無理矢理欧化政策を推進させるのではなくゆっくりと西洋の文化を取り入れて成長していった。




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