武力ではなく、学問や教育によって国を治める文治政治。

 

徳川幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍家継の時代まで行われました。

 

今回はそんな『文治政治』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

文治政治とは

 

 

文治政治(ぶんちせいじ)とは、武力ではなく学問や教育によって国を治める政治のことです。

 

江戸幕府4代将軍「徳川家綱」から7代将軍「家継」までの政治を指します。

 

儒学を奨励し、特に朱子学を幕府公認の学問としました。

 

朱子学は、上下関係や礼儀を大切にする考え方だったので、幕府に従う人材を育成するのに都合が良かったという一面もあります。

 

武断政治から文治政治になった理由・きっかけ

武断政治による社会不安

関ヶ原の戦い、大阪の陣を経て、徳川一強体制が整う3代将軍・家光までは、武力と権力で大名を厳しく取り締まる武断政治(ぶだんせいじ)が行われていました。

 

幕府の言うことをきかない大名は藩の取り潰し、領地の没収、身分の剥奪など厳しく処罰されました。

 

その結果、仕える主君を失った牢人たちが町に溢れ、その数なんと約40万人!

 

さらに、派手な服を着た自由奔放で暴力的な生活を楽しむかぶき者も増加し、治安の悪い不安定な社会になりました。

 

そんな中、より社会不安を高める事件が起こりました。

 

②承応の変により武断政治から文治政治へ

1651年軍学者の由井正雪や牢人の丸橋忠弥らが企てた幕府への反乱計画が発覚(慶安の変)。

 

さらに翌1652年には、戸次庄左衛門ら複数の牢人が老中への襲撃を企て、失敗に終わりました(承応の変)。

 

これらの反幕府的な事件がきっかけとなり、江戸幕府は武力で押さえつける武断政治は不満や反乱のもとになり、安定した統治はできないと考えるようになりました。

 

そこで、4代将軍・家綱の時代から武力ではなく学問、特に朱子学を重んじる文治政治へと切り替えることにしました。

 

4代将軍「家綱」の文治政治

(徳川 家綱 出典:Wikipedia) 

 

 

家綱の文治政治のポイントは「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制(人質制)の廃止」です。

 

①末期養子の禁の緩和

これまで大名たちは後継ぎを決める際、事前に幕府に申請し許可をもらう必要がありました。

 

もし大名が急死し跡継ぎが決まっていなかったら、その藩は取り潰しなるという厳しいルールでした。

 

このような事態を防ぐ救済策が「末期養子の禁の緩和」です。

 

末期養子は跡継ぎのいない大名が急に死にそうになった場合、養子をとって跡継ぎにすることができるというもの。

 

以前からあった制度でしたが幕府は認めておらず、その結果、“藩の取り潰し→牢人の増加”につながったため、末期養子の制度を50歳以下の大名に認めることにしました。

 

②殉死の禁止

殉死とは、主君への忠誠心を示すため、主君の死を追って家臣も命を絶つこと。

 

戦国時代から続いていた風習でした。

 

その殉死を禁止し、主君と家臣との個人的な強固な結びつきを弱めました。

 

③大名証人制(人質制)の廃止

大名証人制とは、大名が家臣の子どもなどを人質として幕府に出すこと。

 

これも殉死と同じく、戦国時代からの風習でした。

 

大名の妻子を江戸に住まわせたことは、この大名証人制とは別のことなので間違えないように!

 

「殉死の禁止」「大名証人制(人質制)の廃止」この2つの決定は、「寛文の二大美事」と呼ばれています。

 

5代将軍「綱吉」の文治政治

(徳川綱吉 出典:Wikipedia)

 

 

家綱の文治政治のポイントは「朱子学」「湯島聖堂」「聖堂学問所」。

 

綱吉は朱子学を幕府公認の学問とし、文治政治を行いました。

 

朱子学者の木下順庵侍講(じこう)にしました。侍講とは将軍に儒学などの学問を講義する人のことです。

 

また、湯島(文京区)に儒家の租、孔子をまつる湯島聖堂を建て、武士に儒学や朱子学を教える聖堂学問所を開設しました。

 

学問所の校長(大学頭)には、家康に仕えた朱子学者林羅山の孫、林信篤が任命されました。

 

以後、聖堂学問所など幕府の学問は林家が代々うけもつことになりました。

 

6代将軍「家宣」と7代将軍「家継」の文治政治

(徳川家宣 出典:Wikipedia)

 

 

家宣と家継の文治政治のポイントは「正徳の治」「新井白石」「間部詮房」。

 

家宣と家継の2代にわたり、政治をサポートしたのが侍講で朱子学者の新井白石側用人(そばようにん)の間部詮房(まなべあきふさ)でした。側用人とは将軍の秘書のような役職。

 

家宣の死後、家継は5歳で将軍になったため、新井白石と間部詮房の体制がそのまま維持されることになりました。

 

(徳川家継 出典:Wikipedia)

 

 

そして新井白石と間部詮房が推し進めた文治政治を正徳の治(しょうとくのち)といいます。

 

主な目的は、将軍の地位や権威を高めることと、綱吉の時代に悪化した幕府の財政を立て直すこと。

 

莫大な費用がかかっていた朝鮮通信使の接待を簡素化し、金や銀が国外へ流出することを防止するため長崎貿易での年間貿易額を制限、そして家柄や身分の序列がひとめでわかるように衣服の制度を整えました。

 

 

また、5代綱吉の代名詞生類憐みの令も廃止

 

 

さらに、綱吉が貨幣の質を下げ発行量を増やしたため物価が上昇したことから、貨幣の質を上げました。

 

しかし、貨幣の発行量が減りかえって経済を悪化させてしまいました。

 

こうした白石らの文治政治は、理想に走り過ぎたため現実とのギャップが大きく、経済の再建はできなかったばかりか、大名や幕臣からの反発を買いました。

 

文治政治の影響

 

 

文治政治は中央の江戸幕府だけでなく、地方の諸藩でも儒学者(朱子学者)を招いて行われました。

 

会津藩の保科正之は、朱子学者山崎闇斎(あんさい)が登用され、藩士の子弟を教育する藩学稽古堂 (のちの日新館)が設立されました。

 

岡山藩の池田光政は、熊沢蕃山(ばんざん)を家老に登用。武士だけでなく、一般庶民の子どもたちの通える郷学閑谷学校を設立しました。

 

ちなみに、蕃山は儒学の中でも朱子学と敵対する陽明学の学者でした。

 

水戸藩の徳川光圀は、明から亡命してきた中国の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)を、加賀藩の前田綱紀は、朱子学者木下順庵の力を借りて、文治政治に取り組みました。

 

 

文治政治のその後

 

 

家継の死後、将軍の継嗣問題は揉めました。

 

 

結局第8代将軍に就いたのは、紀州藩主徳川光貞の四男徳川吉宗。御三家(尾張・紀州・水戸)からの初めての将軍の誕生です。

 

これにより、吉宗は新たな政治『享保の改革』を進めてきました。

 

 

4代家綱の頃から始まった幕府の財政難は文治政治でより悪化し、江戸幕府は様々な策を投じ一時的に回復することもありましたが、結局、最後の将軍15代慶喜までこの財政難と付き合うことになりました。

 

まとめ

・文治政治とは武力ではなく、学問や教育によって国を治める政治のこと。

・江戸幕府4代将軍家綱から7代将軍家継まで行われた。

・儒学の中でも上下関係や礼節を重んじる朱子学を幕府公認の学問とした。

・会津藩、岡山藩、水戸藩、加賀藩などの諸藩でも儒学者を招き文治政治が進められた。

・6代家宣と7代家継の時、新井白石らが行った文治政治を正徳の治という。

・文治政治は結果的に幕府の財政を悪化させた。




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