10年間で国民の所得を2倍にする――。こんな無謀にも思える計画が1960年代の日本にはありました。

 

その名はずばり「所得倍増計画」。

 

ちょうど高度経済成長期に入っていた日本は、なんとこの計画を軽々と達成してしまいます。

 

今回は、『所得倍増計画』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

所得倍増計画とは?

 

 

所得倍増計画は、1960年12月に第二次池田勇人内閣が閣議決定した経済対策の基本計画です。

 

1961年度~1970年度までの10年間で、実質国民総生産(実質GNPの年平均成長率7.2%を達成し、実質国民所得を倍増させることが目標として掲げられました。

 

この計画をもとに、高度経済成長を支えるさまざまな政策が行われました。

 

その結果、日本は当初の計画を上回るペースで経済成長を遂げました。

 

しかし、それと同時に、都市部の過密化農村の過疎化物価の上昇公害の発生などのひずみを生むことにもなりました。

 

所得倍増計画の目的

 

 

所得倍増計画の目的は、国民の生活水準を改善することにありました。

 

閣議決定の文書によれば、国民の完全雇用を達成すること、国民の間にある格差をなくすことが目的に掲げられています。

 

しかし、この計画にはもう一つの目的がありました。

 

それは、前年から続いていた安保闘争から国内の経済政策へと、国民の目を向け変えさせるというものでした。

 

 

所得倍増計画が発表される前年の1959年は、日米安全保障条約の改定をめぐって、政治が大きく揺れ動いていました。

 

アメリカとの改定交渉が進む中、革新政党や労働組合、学生団体、市民団体が次々に反対運動を行いました。1960年5月19日に与党の自民党のみで強行採決すると、反対運動に火がつき、連日国会議事堂前に抗議デモをする人々が押し寄せるようになりました。

 

その後、さらに抗議デモは過激化します。アイゼンハワー米大統領の訪日の打ち合わせのために来日していた秘書官の車がデモ隊に取り囲まれて立ち往生し、1時間後に米海兵隊に救出されるという事件や、国会に突入した全学連が警官隊と衝突する中で、全学連側の女子学生が死亡する事件が起きたりしました。

 

こうした状況を受けて、改定された新日米安全保障条約が発効した6月23日に、当時の岸信介首相は辞意を表明し、翌月に内閣は総辞職しました。

 

 

(岸信介首相"手前" 出典:Wikipedia)

 

 

岸の後を継いで首相となった池田勇人は、混乱していた政治状況を正常化するため「寛容と忍耐」をスローガンに掲げ、これまでの自民党の政治姿勢を改めることを約束しました。

 

その目玉政策となったのが、所得倍増計画だったのです。

 

所得倍増計画の内容

(計画を実施した池田 勇人 出典:Wikipedia

 

 

所得倍増計画では、経済審議会の答申をもとに、1961年度~1970年度までの10年間で、実質国民総生産(実質GNPの年平均成長率7.2%を達成し、実質国民所得を倍増させることが目標に掲げられました。

 

これを達成するために、特に次の5点が重視されました。

 

重点項目

 

 農業基本法を制定し、農業の構造改革を進めること。

 

 中小企業の生産力を上げ、企業間格差をなくすこと。

 

 国内で開発が遅れている地域の道路・港・住宅・下水などを整備し、地域の産業を振興すること。

 

 経済合理性にもとづいて、各地域の産業のあり方やそれに対する投資の仕方を再検討すること。

 

 輸出を拡大して外貨収入を増やすとともに、各国と経済協力をすること。

 

 

計画の具体的な中身では、道路や港などを整備することや国民の完全雇用を目指すこと、社会保障や社会福祉を充実させることに触れているほか、経済成長を支える「人間」の要素に注目し、国民の教育や職業訓練、科学技術の発展を重視しています。

 

また、負の側面である経済格差や地域開発の遅れといった問題が積極的に取り上げられている点も特徴的です。

 

所得倍増計画の結果と効果(達成?失敗?)

 

 

日本は1960年代を通して、所得倍増計画を上回るペースで経済成長を続けました。その結果、1968年にはなんとアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国になりました。

 

こうした経済成長の背景には、国内外のいくつかの要因がありました。

 

まず、国内では、戦前から積み重ねてきた技術が産業に応用できたことや、国民の完全雇用を目指した政策によって多くの失業者を産業発展のために取り込むことができたことは、特に重要でした。

 

また、国際的に見れば、IMF体制下で国際通貨が安定していた中、日本が世界貿易の成長率のほぼ2倍の成長率で輸出を拡大し、需要を増やすことができたことが、日本の経済成長を促しました。

 

輸出で稼いだ外貨は、重化学工業に必要な原材料や燃料を輸入するのに使われ、それでさらに輸出品を作るという好循環が生まれました。ちょうどこの時期に、世界的に原油価格が低下したことも、日本にとっては好都合でした。

 

さらに、このような経済成長は、日本経済の構造そのものも大きく変化させました。まず、戦後から1960年ごろまでは、労働者に対して雇用が少なく、失業者が多数いましたが、それ以降は一転して人手不足になりました

 

その結果、労働者を集めるには賃金を上げずにはいられなくなり、それまでは低かった若年労働者の賃金が改善されたり、大企業と中小企業の間の極端な賃金格差が解消されたりしました。

 

こうした経済成長によって、国民の所得は向上し、豊かな生活が送れるようになりましたが、その反面で副作用もありました。

 

経済成長による大きな副作用

 

 

まず、多くの人々が仕事を求めて、農村から都市部へと移動したことで、農村で農林業を担う人たちが激減しました。これによって、都市部の過密化農村の過疎化が進みました。

 

また、賃金が上がったことにより、製品の生産コストも上がり、その結果として物価も上昇しました。ただし、高度経済成長期には、賃金の方が物価よりも早いペースで上がったため、こうした物価上昇は気づかれにくい変化でした。

 

そして最大の問題は公害でした。

 

1950年代後半から1970年代にかけて、四大公害病(水俣病・第二水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)をはじめとして、多数の公害が発生しました。

 

 

1967年にはこうした公害に対応する公害対策基本法が施行されました。

 

高度経済成長は1973年の石油危機で終わりを迎え、日本は安定成長の時期に入ります。

 

 

まとめ

 所得倍増計画は、1960年12月に第二次池田勇人内閣が閣議決定した経済対策の基本計画のこと。

 1970年度までの10年間で、国民所得を倍増させることが目標として掲げられた。

 この計画の狙いの一つは、国民の目を安保闘争から国内の経済政策へと向け変えさせることにあった。

 この計画をもとに、高度経済成長を支えるさまざまな政策が行われ、日本は当初の計画を上回るペースで経済成長を遂げた。

 しかし、都市部の過密化や農村の過疎化、物価の上昇、公害の発生などのひずみも生んだ。




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