【豊臣秀吉の家紋の意味】五七桐を日本政府が使っている理由は?徹底解説!!

 

豊臣秀吉は、農民出身だった戦国武将ですが、最終的に日本を統一した、歴史上にもかなり重要な人物です。

 

そんな豊臣秀吉ですが、「桐紋(きりもん)」という家紋を使用していたことをご存じでしょうか?

 

この桐紋ですが、日本政府が使っている紋章としても有名なんです!

 

ではどうして、時の天下人だった豊臣秀吉と、現在の日本政府が同じ紋章を使っているのでしょうか。気になりますよね。

 

今回は、豊臣秀吉の家紋「桐紋」について、その意味や日本政府と被っている理由について、徹底解説してきます。

 

豊臣秀吉の家紋とは?

(豊臣秀吉の家紋「五七桐」 出典:Wikipedia)

 

豊臣秀吉の使用していた家紋は、先ほどのとおり桐紋といいます。

 

この桐紋ですが、豊臣秀吉は数多くのバリエーションを使用していたとされています。

 

有名な桐紋は「五三桐」と「五七桐」といいます。

 

これらは、桐の葉の上に、花のついた部分(花序/かじょ)が3本立っているデザイン。

 

ここに描かれている花の数によって、「五三桐」なのか「五七桐」なのかが判別されます。

 

織田信長の家臣時代の豊臣秀吉は、「五三桐」を使用していましたが、後に豊臣姓を名乗った際には、「五七桐」の家紋へ切り替えています。

 

桐紋の意味とは?

 

桐紋には、どの様な意味があるのでしょうか?

 

桐紋の桐ですが、古代中国の神話に登場する鳳凰が止まる木とされています。

 

そのため、昔から桐は神聖な植物とされてきました。

 

中国でのこのような風習が日本に伝来し、日本でも天皇などの皇室が使用できる紋章とされてきました。

 

天皇は一時、神に近い存在とされていたので、神聖な鳳凰が止まる木とされていた桐は、まさに天皇家にふさわしい紋章であるとされていたのです。

 

①豊臣秀吉はどこで神聖な紋章を手にいれたのか?

もともと桐の家紋は天皇家が使用していましたが、後に有力な武家の人間も使い始めるようになりました。

 

その発端は、室町幕府の初代将軍・足利尊氏とされていて、当時の後醍醐天皇から恩賞として賜ったとされています。

 

そこから、織田信長へ渡り、最終的には豊臣秀吉のもとへ、という形だったとされています。

 

豊臣秀吉が、豊臣姓を名乗った際に、使用していた「五七桐」は、当時の天皇であった後陽成天皇から与えられたとされています。

 

②豊臣秀吉は、さらに桐紋を変更!その名も太閤紋

織田信長が自分にしたように、豊臣秀吉は、この「五七桐」を自分の家臣である、前田利家、福島正則、伊達政宗、仙谷秀久らに与え始めます。

 

しかし、本来は自分の家を表す家紋。

 

そんな家紋を与えすぎると、希少価値がなくなってしまうのは、わかりますよね。

 

そこで豊臣秀吉は、「五七桐」をアレンジした「太閤桐」なるものを作成し、使い始めるようになりました。

 

こういうアレンジを施す、豊臣秀吉の大胆さが伝わりますよね。

 

桐紋を日本政府が使用している!その理由は?

 

冒頭でもお話のとおり、豊臣秀吉に与えられた桐紋を、なんと現在の日本政府でも使用しているのです!

 

例えば、首相官邸で総理大臣が会見を開く際の演説台にも、「五七桐」をあしらったプレートを見ることができます。

 

更には、500円硬貨にも「五七桐」があしらわれているんです!もし手元に500円玉があったら、チェックしてみてください。

 

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実は、豊臣秀吉と日本政府とは何もつながりはなく、むしろ天皇家で「五七桐」が使われていたのを明治政府が使い始めた、というだけなのです。

 

更には、明治時代の10円硬貨にも桐紋を使っていたという歴史があります。

 

① 天皇家と「五七桐」

豊臣秀吉が「五七桐」を使用し始めたきっかけを思い出してください。

 

後陽成天皇から賜っていますよね。

 

さらに、織田信長が恩賞として将軍・足利義輝から与えられた桐紋も、元はといえば足利義輝からもらい、足利家自体も、初代将軍足利尊氏が後醍醐天皇から桐紋を賜っていますよね。

 

そう、桐紋はもともと天皇家の証だったのです。

 

しかし、現在の天皇家といえば菊紋のほうが有名ですよね。

 

これは諸説ありますが、天皇ではなく国民のための政治をする民主主義の表れという意味でも「五七桐」を選んだといわれているんです。

 

②明治政府が桐紋を使っているのは秀吉の呪い説もある!

このほかにも、明治政府が桐紋を使用している理由の中に、豊臣秀吉の呪いがあるという面白い説があります。

 

関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる豊臣軍(西軍)は敗北、多くの豊臣方の家臣が九州へ左遷されています。

 

そして260年後、明治新政府軍は、薩摩公約の折に薩長桐紋を掲げて討幕運動を行っています。

 

そして、今の明治政府が誕生したというものです。

 

これはあくまで都市伝説くくりの説ですので、「こんな説があるんだなぁ」という話のタネとして知っておくのも悪くないでしょう。

 

豊臣秀吉の家紋、そもそもひょうたんじゃなかった?

(豊臣家の馬印千成瓢箪 出典:Wikipedia)

 

豊臣秀吉の家紋ですが、ひょうたんを模した家紋も使われていました。

 

秀吉はかつて、ひょうたんがたくさん重なった形をした「千成瓢箪」と呼ばれる紋を使用していたことも知られています。

 

これと桐紋とで混同してしまいがちですが、「千成瓢箪」は、どちらかというと家紋というよりは馬印として使用していたものになります。

 

家紋から見ることができる「豊臣秀吉の人物像」

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(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

 

桐紋の変化の経緯や、千成瓢箪の馬印から、豊臣秀吉の人物像もうかがい知ることができます。

 

豊臣秀吉は、周りが高貴な家の出身である武将たちが多い中、農民の出身で、足軽から天下人へのし上がった人物です。

 

千成瓢箪の馬印に、桐紋の変更やアレンジ。

 

そして「太閤桐」という自分だけの紋章からも、自分の存在を大々的にアピールしたかった、目立ちたがり屋だったという性格がわかります。

 

そして、自分の”天下人”や”太閤”という地位に固執していたこともわかります。

 

また、「五七桐」を自分の家臣へ与えていたところからも、周囲との関係づくりに邁進していたこともうかがえます。

 

まとめ

 豊臣秀吉の使用していた家紋は桐紋で、数多くのバリエーションを持っている。

 有名な桐紋は「五三桐」と「五七桐」、そして「太閤紋」である。

 桐紋自体は、元は神聖な植物である桐があしらわれていたことから、もともと神に等しいとされていた天皇家の象徴であった。

 「五三桐」は織田信長から豊臣秀吉に与えられ、「五七桐」は豊臣姓へ改正後に後陽成天皇から賜る。そして「太閤紋」は豊臣秀吉独自のアレンジでつくられる。

 「五七桐」は日本政府でも使用されている。これはもともと桐紋が天皇家の紋章であったこと、民衆のための紋章としての意味を持っているから。

 「五七桐」は、明治政府が「天皇家が使っているから」という理由で使い始める。

 豊臣秀吉の家紋として、千成瓢箪も有名だが、これは馬印である。

 家紋から、豊臣秀吉が目立ちたがり屋な性格であることがわかるが、一方で家臣や周囲との関係づくりに邁進していたこともわかる。