【保元の乱・平治の乱・源平合戦の流れ】簡単にわかりやすく解説!

 

10世紀以降、平氏や源氏の武士が力をつけると、朝廷や貴族にも大きな影響を与えるようになり愚管抄(ぐかんしょう)に「武者の世」と記されるほどでした。

 

平治の乱後は平氏が強大な力を持って全盛期を迎えますが、各地で平氏への不満は高まっており一般には源平合戦と言われる「治承寿永の内乱」で決着することになります。

 

今回は、『保元の乱・平治の乱・源平の合戦』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

保元の乱・平治の乱・源平合戦の概要

 

保元の乱とは、鳥羽法皇の皇位継承をめぐり、後白河天皇側が崇徳上皇側を破った戦いのことです。

 

このとき、藤原氏、平氏、源氏ともに身内を分かつ戦いとなりました。

 

平治の乱は後白河上皇の近臣の争いのことで、平氏と結ぶ藤原通憲(出家後は信西と名乗る)が源氏と結ぶ藤原信頼を破り、平清盛が高位につくなど平氏が全盛期を迎えることになります。

 

源平合戦では、以仁王(もちひとおう)の令旨をきっかけに幾度にも及ぶ戦が繰り広げられました。

 

平氏は倶利伽羅の戦いで敗北すると都落ちして西国に逃れたものの、攻め落とされ滅亡します。

 

これらの一連の戦いを治承・寿永の内乱、一般に源平合戦といいます。

 

平氏・源氏の起こりと台頭

①平氏の起こり

平氏は、桓武天皇の曽孫にあたる高望王が臣民としての身分に降下し、平姓を与えられたことから始まります。

 

高望王は平高望と名乗り、東国に根を下ろします。

 

高望王の孫にあたるの平将門は、935年に将門の乱を起こし最終的には朝廷に打ち取られるものの、東国の大半を征服して新皇と名乗るなど武士の力を見せつけました。

 

②源氏の起こり

源氏は、清和天皇の孫の経基が臣民の身分に降下し源の姓を賜ったことから始まります。

 

経基は939年に瀬戸内海周辺で起きた純友の乱を小野好古とともに平定し地方武士の力を示します。

 

1028年に源頼信が平忠常の乱を平定します。

 

その後、105162年の前九年合戦では、陸奥の豪族安倍氏の反乱を源頼義、その子義家が平定し、東国進出を決定づけます。

 

108387年の後三年合戦では清原氏の内紛を陸奥守義家が平定し、源氏は東国での信望と棟梁としての地位を確立します。

 

③院政期の平氏と源氏

1086年に白河上皇が院政を始めると、院の御所に北面の武士や武者所を設置したほか、源義家や平正盛ら源平の武士団を側近として護衛させるなど武士の力を利用して院の権力を強化するようになりました。

 

 

武家の棟梁として東国に勢力を広めていた源氏でしたが、義家の子の義親が出雲で反乱を起こすと、平正盛の追討にあい討ちとられます。これを機に源氏の勢力は勢いを失い、かわって桓武平氏の一族が発展をみせます。

 

平正盛は荘園を白河上皇に寄進し政界とのかかわりを深め、高位を得て地位を高めます。

 

正盛の子の忠盛は、瀬戸内海の海賊平定などで信任を得ると、千一体の千手観音像を安置する得長寿院を造営し殿上人となります。

 

一方の源氏は、義親の子で義家の養子となった為義が摂関家と結びつき、為義の子の義朝は鎌倉を根拠に関東の武士との関係を強くしました。

 

保元の乱のはじまり

(保元・平治の乱合戦図屏風 出典:Wikipedia)

 

 

鳥羽法皇は勢いを増す源平の武士を組織し各地の荘園を集積したことで、大きな権力を築きます。

 

鳥羽法皇の死後は、引き継いで実権を握る後白河天皇に対し、生前より皇位継承で対立していた崇徳上皇が実権を握ろうと兵を集めます。

 

これにより、天皇方と上皇方とに分かれて争う構図が出来上がります。

 

天皇方には、藤原通憲を参謀に平清盛や源義朝らの武士が加わります。上皇方には、左大臣の藤原頼長に源為義や平忠正らの武士を集めました。

 

戦は天皇方の夜襲に始まり、上皇方は為義の子の為朝の善戦虚しく火を放たれて総崩れとなります。

 

その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、頼長、為義、忠正らは命を落とします。この一連の争いを保元の乱といいます。

 

慈円の著書『愚管抄』には「武者の世」になったと記されており、武士が政争に使われる世になったという事実が強い印象を与えたことがわかります。

 

 

平治の乱のはじまり

(三条殿焼討 出典:Wikipedia)

 

 

保元の乱後、保元の新制にて荘園の整理を行いますが、後白河天皇が上皇となったころには近臣の争いが激しくなります。

 

政治の主導権を握る藤原通憲に反感を持つ藤原信頼との争いが起こります。

 

平清盛と結ぶ通憲に対し、信頼は源為朝と結ぶと清盛が熊野詣でに出かけている間に兵をあげ通憲を自殺に追い込みます。

 

清盛が京都に戻ると信頼、義朝の追討宣旨(せんじ)が下され、信頼を滅ぼし義朝を討ちとり義朝の子頼朝は伊豆に流しました。この争いが平治の乱です。

 

その後は清盛は白河上皇の信任を得て、蓮華王院を造営し千一体の千手観音像を本堂の三十三間堂に安置すると、異例の昇進により太政大臣になります。

 

忠盛のときから日宋貿易で財をなし清盛の子の重盛も高位につくなど、平氏の全盛期を迎えました。

 

 

源平合戦のはじまり

(源平合戦図屏風 出典:Wikipedia)

 

 

源平合戦は正式には治承・寿永の内乱とよばれ、平氏の専制的な政権に対する反発から、各地での幾たびにもわたる争乱のことです。

 

その背景として、1177年に後白河法皇の近臣藤原成親や僧俊寛(しゅんかん)らが、京都東山ではかりごとをめぐらし失敗する鹿ケ谷の陰謀とよばれる事件がありました。

 

1179年には、法皇の反平氏の動きが表面化し、清盛が法皇を幽閉する治承三年の政変が起きます。

 

①以仁王の挙兵

11805月、後白河法皇の第2皇子である以仁王と源頼政は、平氏打倒のために園城興福寺とともに兵をあげます。

 

しかし、清盛の反撃にあうと、頼政は宇治で戦死し、以仁王も興福寺へ向かう途中で討ちとられました。

 

以仁王が亡くなるころ、源頼朝の叔父である行家を使者に以仁王の平家打倒の令旨は諸国の源氏や藤原氏に配られていました。

 

これにより以仁王の意志が伝わることになります。

 

②令旨への呼応

伊豆に流されていた頼朝は令旨を受け取り、同年8月に伊豆の山木館を襲撃し目代の山木兼隆を討ちとります。

 

しかし、頼朝は追撃にあい相模国石橋山で陣を構えますが、敵の大きな戦力に敗れて逃走し海路房総半島へと逃亡します。

 

これが石橋山の戦いです。

 

 

こののち頼朝は房総半島の豪族や反平氏勢力を味方にして関東で大勢力をつくりあげ、同年10月に平氏の追討軍と駿河国富士川で対峙します。

 

大軍を恐れた平氏軍は逃亡者が相次ぎ目立った争いもなく敗走します。

 

これを富士川の戦いとよびます。

 

 

③清盛の死と平氏の都落ち

さらに戦乱が拡大する中、1181年に清盛が病死し指導者を失います。

 

養和の飢饉などで小康状態となりますが、1183年に平氏は北陸の反乱軍に向けて大軍を派遣。加賀と越中の国境付近で源義仲が迎え討ち撃破します。(倶利伽羅峠の戦い

 

 

義仲は敗走する平氏軍を追い加賀国篠原でも勝利し、そのまま京都まで攻め上ります。

 

畿内の武士や寺社は平氏に反旗を翻し、同年7月には平氏一門は京都から追い落とされることになりました。

 

政治的配慮に欠ける義仲は朝廷から反感を買うなど反平氏盛力の掌握に失敗すると、頼朝に上洛を求める声が大きくなります。

 

頼朝が東国の軍勢を率いて上京すると、義仲は離反者も多く11841月に戦死します。

 

④平家滅亡へ

源氏の争いのうちに勢力を回復した平氏は、福原に戻り京都帰還の機会をうかがいます。

 

しかし、後白河法皇が平氏追討の院宣(いんぜん)を頼朝に与えると、頼朝は平氏の拠点である摂津国で平氏を討ちます。(一ノ谷の戦い

 

 

さらに、頼朝は讃岐国屋島に敗走した平氏軍を追討します。

 

こののち、長門国壇ノ浦に追い詰めると、11853月、ついに平氏一門は安徳天皇とともに海中に没します。

 

これにより平氏が滅亡します。

 

まとめ

 保元の乱と平治の乱は、朝廷の内部対立に武士が加わった争いのこと。源平合戦とは、平氏政権に対する6年にわたる大規模な反乱のこと。

 院政が始まった頃から朝廷は武士を利用して院の権力を強化したが、保元の乱と平治の乱になると朝廷内の対立が武士の力で解決されることが明らかとなった。

 源平合戦は、結果的に政治の実権が平氏から源氏に移った戦いとなり、武士がの世が定着することとなった。