明治時代に起こった民衆が政府に訴えかえた運動『三大事件建白運動』

 

今回はそんな『三大事件建白運動』についてわかりやすく解説していきます。

 

三大事件建白運動とは

 

 

1887年(明治20年)に起こった政治運動のことを三大事件建白運動と言います。

 

三大事件建白運動の「三大事件」とは言論の自由・地租の軽減・外交失策(外国との交渉に失敗すること)の挽回(取り戻す)の3つの事を指しています。

 

これら3つのことを民衆が政府に訴えかえた運動のことを三大事件建白運動なのです。三大事件についてなど、内容を詳しくわかりやすく説明します。

 

三大事件建白運動の背景

(井上馨 出典:Wikipedia

 

 

当時の外務大臣・井上馨欧米化政策を進めていました。

 

欧米化というと欧米文化を取り入れることと思ってしまいますが、そうではなく日本も欧米と同じような権利がある条約を結ぼうといおことです。

 

江戸時代に欧米と結んだ条約は日本には不利なものが多かったからです。

 

欧米がなかなか返事をしなかったのは「領事裁判権」(日本で罪を犯した欧米人を日本の裁判で裁くことが出来なかったのです)の改正でした。

 

 

井上馨は日本の裁判所で外国人判事が外国人を裁けばいいと言うことを提案。

 

この弱腰な提案に対し、民権派(政府から抜けて反政府運動をしているものたち)は抗議。政府は民権派をおさえ、保安条例(政府批判するものをさばく条例)で民権派を追い出しました。

 

 

建白書と保安条例について詳しく

①建白書の内容

小林薫が外交を失敗したとき、民権派の中でも高知県の片岡健吉らが唱えたことが、

言論の自由の確立

地租軽減による民衆の安心

対等な立場での条約改正(外交の回復)

でした。

 

これを柱にした三大事件建白と呼ばれる建白書を政府に提出しました。

 

②政府が弾圧した条例~保安条例~

後藤象二郎による大同団結運動(1886~1887年に発生した日本の議会開設に備えた統一運動のこと)が盛り上がっていました。

 

後藤象二郎は片岡健吉、尾崎行雄、星亨にも政府批判を呼びかけました。

 

これに対し政府は「保安条例」を出し、片岡健吉を逮捕しました。ほかに運動している者に対しても追放や逮捕して、運動の広がりを止めたのでした。

 

自由民権運動のおこり

①自由民権運動

自由民権運動と言えば板垣退助と言われています。1874年、土佐に立志社という政治結社を作りました。

 

薩摩藩、長州藩出身の人間だけが政治をしていることを批判したのです。そして「国民が選んだ議員に政治を任せるべき」と主張しました。これを民選議員設立の潔白書と言います。

 

自由民権運動はこうして始まりました。

 

1875年全国的な結社「愛国社」を結成。板垣退助たちの呼びかけで、国会開設の署名が武士だけではなくどの身分からも集まりました。

 

ちょうどそのころ、北海道の開拓を任されていた黒田清隆の不正が民衆にも発覚してしまいます。政府は混乱を避けるため、10年後の国会開設を約束したのでした。

 

②板垣退助について

現在の高知県(土佐藩)で1837年に生まれた板垣退助は、身分差に厳しい土佐藩の武士の子に関わらず農民や町民、身分関係なく話をする変わり者扱いをされていました。

 

この奔放さが自由民権運動を起こした人間の根底となったと言われています。

 

1867年薩摩藩と土佐藩の間に「薩土密約」が結ばれると翌年1868年に起こった戊辰戦争では討幕軍のリーダーとして土佐藩軍を率いて、勝利をもたらしました。

 

1871年に明治政府の役職(参議)となって、西郷隆盛「征韓論」を発表します。

 

「征韓論」とは武力により朝鮮の開国を迫ることです。しかし、海外視察から戻った岩倉具視から反対され、明治政府から外されました。

 

 

ここで土佐に戻り自由民権運動を始めます。

 

時を経て10年、自由党を結成し、党首となりました。この時に暗殺未遂事件が起き「板垣死すとも自由は死せず」と言いながら意識を失いましたが命は助かっています。

 

その後、第二次伊藤内閣大隈内閣内務大臣になり活躍しました。

 

1900年に政界引退。引退後は社会事業に力を注ぎました。

 

 

大同団結運動

 

大同団結運動とは1884年以降強まった政治運動のことです。

 

1884年自由党が解散、立憲改進党も中心人物がいなくなりました。

 

自由民権運動(自由と権利を訴えた運動)に積極的だった自由党と立憲改進党に元気がなくなってしまったのです。

 

国会がもうすぐ解説されるというときに、言論の自由や税金軽減、不平等条約の改正を求める声がなくなった状態になってしまっていたのです。

 

自由党にいた星亨が旧自由党や立憲改進党の人たちと共に政府にこれらのことを呼びかけようと働きかけたのです。

 

これに応じた後藤象二郎はこの働きかけに参加することになります。

 

最初は星亨の呼びかけでしたが、ここからは後藤象二郎が積極的に講演会や演説会を開いて大同団結を訴えるようになりました。

 

さまざまな勢力が団結して政府に呼びかけたこの一連の動きが「大同団結運動」なのです。

 

自由民権運動で活発に動いた板垣退助はこの運動には参加しませんでした。

 

三大事件建白運動の中心人物

①後藤象二郎

1838~1897年 江戸時代末期から明治時代の武士。土佐藩士政治家。

大同団結運動で逮捕されますが、のちに政府に協力することになる。

 

②片岡健吉

1844~1903年 土佐藩士。

戊辰戦争(薩摩・長州・土佐藩中心の新政府軍と幕府側の旧政府軍との闘い)で活躍。ロンドン留学経験がある。

 

③尾崎行雄

1858~1954年 日本の政治家。

当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録を持つ衆議院議員。「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた。

 

④星亨

1850~1901年 日本の政治家。

イギリス留学を経て弁護士になり、のちに衆議院議員になります。移民政策に熱心だった。

 

まとめ

・外務大臣・井上馨は欧米化政策を進めていた。

・欧米化政策の1つとして鹿鳴館で欧米人接待をして失笑された。

・欧米は領事裁判権(日本で犯した罪を欧米人が裁くこと)の返事をしぶった。

・井上馨は欧米に対して、日本の裁判所で外国人判事がさばけばいいと提案する。

・この弱腰な発言に対して民権派(政府から抜けて反政府運動をしている人)が抗議。

・「言論の自由」「地租の軽減」「外交失策の挽回」の3つを三大事件という。

・民権派の片岡健吉は三大事件建白と言われる建白書を政府に提出。

・後藤象二郎は大同団結運動を起こし、片岡健吉、尾崎行雄、星亨にも政府批判呼びかける。

・大同団結運動を取り締まるため政府は保安条例を出す。




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