【源氏と平氏の違い】わかりやすく解説!!それぞれの特徴・由来など

 

日本の代表的名家を「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と表すことがありますが、この四姓のうちでは新しいほうの二つが「源氏」と「平氏」にあたります。

 

この「源氏」と「平氏」は、平安時代に皇位継承の可能性がなくなったような皇族たちがの臣籍降下(しんせきこうか)が相次ぎ、その姓として「源」や「平」を名乗ることで始まりました。

 

今回は、「源氏と平氏の違い」について、わかりやすく解説していきます。

 

源氏と平氏の違い

 

源氏と平氏は、以下のような特徴がある武士団のことです

 

それぞれの違い

 

✔ 祖となる人物

源氏:経基(つねもと)王(おう)源経基となる

平氏:高望(たかもち)王(おう)平高望となる

 

✔ 流派

源氏:二十一流派、清和源氏、摂津源氏、大和源氏、河内源氏、村上源氏など

平氏:四流派、桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏

 

✔ 台頭した出来事

源氏:源経基が小野好古(よしふる)とともに藤原純友(すみとも)の乱を鎮める

平氏:将門(まさかど)将門の乱をおこし東国の大半を制圧する

 

✔ 政権

源氏:1185年に源頼朝が鎌倉幕府を開き、封建制度を確立

平氏:平清盛1167年に太政大臣となって実験に握り、官職を独占する

 

✔ 衰退

源氏:武家源氏の河内源氏は、頼朝の死後数十年で断絶する

平氏:1185年に壇ノ浦の戦いで源氏に討たれ滅亡する

 

大まかな違いが分かったところで・・・次からは『源氏と平氏の違い』をより深堀しながら詳しくご説明していきます。

 

源氏と平氏のおこりの違いを詳しく解説!

 

平安時代には安定した皇位継承を目指し、多くの皇子がもうけられました。

 

ただ、増えすぎると、皇位継承の可能性が極めて低くなる皇子が増加し、財政の圧迫にもつながっていきます。

 

そこで、皇族の身分を離れて姓を得て臣下の籍に降りるという臣籍降下をする皇子が相次ぐようになりました。

 

臣籍降下してしばらくは地位が保証されますが、以降の保証はなく没落する者もでてきます。

 

このような時代背景があって、源氏は清和天皇の第6皇子貞純(さだずみ)親王の子である経基王(六孫王)が臣籍降下し、源の姓を賜ったことに始まります。

 

源氏には源氏二十一流と呼ばれる天皇別の流派が二十一あり、清和源氏はそのひとつとされています。

 

平氏の起こりは、桓武天皇の子孫である高望王が臣籍降下し、平姓を賜ったことです。

 

平氏には四流あると言われていますが、主に後世に残ったのは桓武平氏の葛原(かずらわら)親王の流れであるとされています。

 

源氏と平氏の流派の違いを詳しく解説!

①源氏の流派

源氏の流派は二十一流あるとされています。

 

そのうちの一派である清和源氏は武家源氏として知られており、清和源氏が源氏と称されることもありました。

 

とくに、清和源氏は畿内から各地に土着し、源満仲の子から摂津源氏、大和源氏、河内源氏に分かれます。

 

河内源氏の源義家は子孫が源頼朝に代表される部門で栄えました。また、石川源氏、甲斐源氏、常陸源氏、下野源氏、上野源氏などに分かれます。

 

摂津源氏からは多田源氏、美濃源氏などが分派しており、いずれも武家源氏としての清和源氏一門とされています。

 

その他の武家の源氏には、融(とおる)を祖とする融流嵯峨源氏、宇多源氏の中で近江源氏がありました。

 

村上天皇の皇子を祖とする村上源氏は中央貴族として栄えます。左大臣、右大臣、太政大臣などにつくなど、官位の高い役職を担ってきました。

 

②平氏の流派

平氏の流派は四流派ありますが、後世に残ったのは桓武平氏の葛原親王の流れであり、武家平氏として名を馳せたのは高望王流板東平氏だけであったとされています。

 

これには、常陸平氏や伊勢平氏、北条氏や板東八平などもありました。

 

さらに、桓武平氏には善棟王流や公家として活躍した流もあります。

 

他には、親王流、仲野親王流、賀陽親王流が桓武平氏に含まれます。

 

その他の流派は、仁明(にんみょう)天皇の孫である雅望などの子孫からなる仁明平氏、文徳(もんとく)天皇の皇子である惟彦親王の子孫の文徳平氏、光孝天皇の子孫からなる光孝平氏がありました。

 

源氏と平氏の台頭と隆盛の違いを詳しく解説!

 

10世紀以降、武士として台頭した源氏と平氏は、お互いに力をつけ、力関係が入れ替わったり、それぞれ政権をとることもありました。

 

どのように力をつけたのか、どのように政権をとったのかは源氏と平氏で少し違いがあります。

 

①武士の成長

東国で勢力を広めた平氏は、939年に平将門が将門の乱をおこし、東国の大半を制圧すると新皇と称するにいたります。

 

 

ほどなくして、平貞盛と藤原秀郷らに倒されますが、地方武士の力を見せつけることになりました。

 

同じころ、藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて純友の乱をおこし、東は淡路、西は大宰府までを攻め落としてしまいます。

 

これをおさめたのが、小野好古と清和源氏の祖とされる源経基でした。

 

②源氏の進出

源経基の子の満仲は摂津を根拠地に摂関家に仕えており、さらに満仲の子の頼光頼信も摂関家に近づきながら権勢を高めていきます。

 

そのころ関東で勢力を強めていた平忠常1028年に平忠常の乱がおこしますが、頼信によって鎮められます。

 

 

1051年、陸奥でおきた前九年の役では、頼信の子の頼義が安倍氏を一旦降伏させ、長期戦となったのちには頼義の子の義家が清原氏の協力を得て安倍氏を滅ぼします。

 

1083年におきた後三年の役では、清原氏の内紛から始まり陸奥守の義家が藤原清衡とともに戦い内紛を平定しました。

 

③保元・平治の乱

1086年に院政が始まると、上皇は院の権力を強化するためにも源義家や平正盛らの源平の武士団に護衛をさせるなど側近として仕えさせました。

 

源氏は義家のあとを継いだ義親が流された出雲で乱をおこし討ち取られるなど勢いが衰えます。

 

源義親を討って武名をあげた平正盛は、白河上皇との結びつきを強めて受領や検非違使となり地位を高めていきます。

 

正盛の子の忠盛は、鳥羽上皇の信任を得て得長寿院をすると殿上人となり貴族としての身分を獲得します。

 

平氏が出世していく中、源氏のほうは、義親の子であり義家の養子となった為義が摂関家と結びつきます。

 

また、為義の子の義朝は東国で鎌倉を根拠地に関東の武士と主従関係を強めていきました。

 

1156年、後鳥羽上皇の死去後の権力争いから京都で保元の乱がおこります。

 

後白河天皇方に平清盛と源義朝、崇徳(すとく)上皇側に平忠政と源為義がついて対立し天皇方が勝利すると、忠政、為義ともに殺されてしまいます。

 

さらに、後白河上皇の近臣間の対立が激しくなると、1159年に平治の乱に発展します。

 

ここでは藤原通憲(みちのり)信西(しんぜい))側に平清盛、重盛、頼盛がつき、藤原信頼側に源義朝、義平、頼朝がつきました。通憲は自殺させられますが、清盛らが信頼側を滅ぼします。

 

④平氏政権

清盛は後白河上皇の信任を得ると、異例の昇進を遂げて太政大臣となり、その子重盛も高官につくと平氏は全盛期を迎えます。

 

さらに、経済基盤も安定し、娘を天皇の中宮にいれるなどして、権勢を誇ります。

 

しかし、平氏政権の官職の独占は、排除された旧勢力から強い反感を受けることになります。

 

1177年には鹿ケ谷の陰謀がおこるなど、後白河法皇側の打倒平氏への動きが表面化すると、清盛は法皇を幽閉するという手段に出ます。

 

⑤源平の争乱

後白河法皇を幽閉した平清盛は平氏の専制政治を築きますが、貴族や大寺社、地方の武士たちの不満は強く栄華は長くは続きませんでした。

 

後白河法皇の第二皇子の以仁王源頼政が立ち上がると、世に言う源平合戦、正式には治承・寿永の内乱が始まります。

 

 

源頼朝を中心に平氏勢力を追い詰めて、1185年に壇ノ浦で平氏を滅ぼします。

 

その後、源頼朝は鎌倉幕府を開き、日本で初めての封建制度に基づく政権をつくりあげました。

 

鎌倉幕府のあり方は、のちの日本にも大きな影響を及ぼしました。

 

まとめ

 平安時代に皇族が臣籍降下し、源氏は経基王が源経基、平氏は高望王が平高望と名乗ることで始まり、以降は武家の棟梁として力をつけた。

 源氏も平氏も、武家源氏、武家平氏として武門で活躍する流派がある一方、中央で高官につき活躍する流派もあった。

 源平ともに政権をとることがあったが、平氏は専制的政権により反感を買い、源氏は卓越した指導者である頼朝も源氏を長期政権にすることはできなかった。