源平合戦として有名な治承・寿永の乱の後半戦で、平氏の滅亡へとつながることになる一連の戦いがありました。

 

その最初の戦いが一の谷の戦いです。

 

今回は、そんな『一の谷の(いちのたに)戦いについて簡単にわかりやすく解説していきます。

 

一の谷の戦いとは?

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(兵庫県神戸市にある源平の史跡 出典:Wikipedia

 

 

一の谷の戦いとは、平安時代の末期の1184年に摂津国福原および須磨(現在の兵庫県神戸市)で行われた戦いです。

 

1180年から1185年という長期間に渡って戦われた平氏と源氏の内乱である、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)の戦いの一つです。

 

1184年に、後白河法皇が都落ちの際に平氏が持ち去った三種の神器を奪い返すようにと、源頼朝に命じたことをきっかけに戦いは始まりました。

 

この戦いでは、源義経が断崖絶壁から平氏を襲う「逆落とし」が有名です。

 

また、平氏軍の若武者である平敦盛と源氏軍の武将熊谷直実の運命的な出会いがあり、それは平家物語の名場面となっています。この場面は、能や文楽、歌舞伎の題材ともなっているのです。

 

一の谷の戦いが起こった背景

 

一の谷の戦いの背景には、治承・寿永の乱がありました。また、その内乱の中で様々な戦いがあったのです。

 

①治承・寿永の乱の全容

1180年から1185年に渡って、平氏と源氏の間で戦われた内乱を治承・寿永の乱と呼びます。

 

 

後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平氏を打倒するために兵を挙げたことがきっかけで、全国に平氏に対抗する反乱が起こります。

 

いわゆる「源平合戦」と言われている内乱です。

 

この内乱の中で、平氏の時代を築いた平清盛が亡くなります。

 

また、多くの戦いが行われました。それは平氏と源氏の戦いだけでなく、源氏同士の戦いであり、後の鎌倉幕府を開く源頼朝の地位を確立することになりました。

 

内乱の後半には、一の谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦いといった、現在にも語り継がれる平氏と源氏の壮絶な戦いが行われたのです。

 

②水島の戦いと法住寺合戦

一の谷の戦いが起こる前に水島の戦いが起こっていました。

 

水島の戦いは、1183年11月に備中国(現在の岡山県倉敷市)で、源義仲軍と平氏軍の間で行わた戦いのことです。

 

この戦いの前に義仲軍は平氏と争い、平氏を打破。平氏は都を離れ、三種の神器を持って九州まで逃げていました。

 

その後、後白河法皇の命令で再び義仲軍は平氏を討ちに行き、水島の戦いとなりますが敗けてしまいます。

 

後白河法皇は源義仲に頼るのを止めて、源頼朝に頼ろうとしますが、それが義仲の怒りをかいます。

 

 

(源頼朝 出典:Wikipedia)

 

 

その結果、義仲は後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉してしまいます。これが、法住寺合戦です。

 

1184年1月に義仲軍と後白河法皇が集めた官軍の間で戦いが起こり、結果は義仲軍の圧勝でした。

 

③続いて宇治川の戦いの発生

法住寺合戦で圧勝した義仲軍ですが、法皇や天皇の後ろ盾を失くし、源頼朝の勢力が大きくなるのを見て、多くの兵が義仲を見限り、兵力は激減します。

 

そこへ、頼朝は範頼と義経に義仲を討つように命じます。それが、宇治川の戦いです。

 

1184年1月に、京都近郊の宇治(現在の京都府宇治市)で戦われました。

 

この戦いの中で、義経は幽閉されていた後白河法皇を確保することに成功。その後、義仲は京を逃げようとしますが、あえなく討ち取られてしまいました。

 

 

(源 義経 出典:Wikipedia)

 

 

この宇治川の戦いで、源氏同士の権力争いに終止符が打たれます。

 

一の谷の戦いの発生と経過

①源義経の快進撃

一の谷の戦い前に、源氏同士の争いがあり、平氏はその間に力を盛り返します。

 

いったん、九州へと逃げた平氏ですが、福原(現在の兵庫県神戸市)まで進出して、瀬戸内海を制圧。中国、四国、九州地方を支配するようになりました。

 

宇治川の戦いの後、後白河法皇は三種の神器を奪い返すよう源頼朝に命令を下します。

 

そして、範頼軍と義経軍は摂津(現在の大阪と兵庫の間)まで兵を進め、その後、義経軍は丹波路(現在の京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部の地域)を通って、播磨国(現在の兵庫県南西部)に陣を取っていた平資盛(すけもり)平有盛(ありもり)の軍を撃破します。

 

軍を進める義経は鵯越(ひよどりごえ)で、軍を二手に分けて、自分は70騎のみで山道へと進んでいきます。

 

②一の谷の戦いの始まり

1184年3月20日、義経軍から抜け出した熊谷直実(なおざね)と直家(なおいえ)の親子ら5騎が平忠度(ただのり)軍に名乗りを上げて、戦いが始まりました。

 

平氏は福原を中心に数か所に陣を構えており、その一つ「生田口」と呼ばれる場所で平知盛(とももり)重衡(しげひら)は陣を組んでいました。

 

その陣に、範頼軍5万騎が矢を放って攻撃を仕掛けます。しかし、平氏軍は壕をめぐらして待ち構えており、逆に平氏軍も激しく矢を放って源氏軍に応戦します。

 

福原を守るために置いた平氏の陣は、生田口の他に夢野口と塩屋口がありましたが、いずれの陣でも平氏は奮戦して、源氏は簡単に陣を破ることはできませんでした。

 

③義経の逆落としと平氏の敗北

(鵯越の逆落とし 出典:Wikipedia)

 

 

一方、山道を進んでいた義経は、一の谷の裏手となる断崖絶壁へと到着します。

 

そこは、平忠則が陣を置いていた塩屋口の近くでした。

 

70騎を率いた義経は一気に絶壁を駆け下り、平氏軍を襲撃。すると全く予想していなかった所から攻撃を仕掛けられた平氏軍は、大慌てで海へと逃げだしました。

 

生田口にいた重衡は、その情報を聞き、攻撃にあっている夢野口へ応援へ行きます。

 

しかし、そのあと範頼軍に攻撃を受けていた生田口で、知盛は陣を守り切れずに敗走を始めます。

 

安徳天皇建礼門院(安徳天皇の母)と共に船の中で戦いの状況を見守っていた、平氏の総大将「平宗盛(むねもり)」はこの敗北を見留め、屋島へと逃げました。

 

一の谷の戦いのその後

(屋島の戦い 出典:Wikipedia

 

 

一の谷の戦いは、その後どのような影響を与えたのでしょうか。

 

①屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの発生

一の谷の戦いの後、平氏は屋島(現在の香川県高松市)へと逃げます。

 

そして1185年3月22日に屋島の戦いが行われ、そこでも平氏軍は敗北。今度は彦島(現在の山口県下関市にある島)へと逃げます。

 

 

1185年4月25日、そこで源平の最後の戦いである壇ノ浦の戦いが行われ、この戦いで平氏は滅亡します。

 

幼い安徳天皇は、母と祖母たちと共に海に身を投げ、その際に三種の神器の一つである宝剣は紛失したとされています。

 

平清盛により権力を誇った平家があっけなく滅んだ物語は「平家物語」により、語り継がれることになりました。

 

そこには、物事の儚さなど今もって日本文化に受け継がれている精神がつづられています。

 

②逆落としは本当にあったのか?

一の谷の戦いは、義経の逆落としで有名ですが、実際に逆落としはあったのでしょうか。

 

義経が逆落としをした場所は、一般的に鵯越(現在の神戸市兵庫区鵯越町)と言われています。

 

この地は、一の谷(現在の神戸市須磨区一の谷町)から東方8キロに位置しており、地理的にここから一の谷へ一気に攻撃をかけたというには矛盾があります。

 

近年では、逆落としの場所は一の谷の裏にある鉄拐山の崖である方が合理的と考えられています。

 

一方、逆落とし自体が本当にあったのかどうかも疑われていることもあります。

 

というのも、当時の一級史料「玉葉(ぎょくよう)」には、義経が一の谷から平氏を急襲したという記述自体がないためです。

 

逆落としは「平家物語」の創作ではないかという説が、歴史家の間では有力となっています。

 

③平敦盛と熊谷直実

(船へ戻ろうとする敦盛を呼び止める直実 出典:Wikipedia

 

 

とは言え、戦い自体は実際にありました。

 

その登場人物に関わるエピソードで、今でも語り継がれ、戦いの非情さ、命の儚さなどを伝えてくれています。

 

一の谷の戦いの先陣を切った源氏の武将熊谷直実は、戦いの中で平氏の若武者に一騎打ちを挑みます。

 

その若武者を馬から引きずり下ろし兜を外して首を取ろうとすると、自分の息子と同じような歳と見て、一度ひるみます。

 

直実がその若武者を逃そうとしますが、味方の軍が迫っているのを見て、泣く泣く自分で首を取りました。

 

その後、その若武者は平敦盛(あつもり 清盛の甥)で、その歳が17であることがわかります。

 

そして、その約10年後に直実は出家を決意します。

 

それほど武士であることの無情が直実の心に突き刺さっていたのでしょう。

 

まとめ

 一の谷の戦いは、1184年3月20日に摂津国福原および須磨で、平氏と源氏の間で行われた戦いである。

 一の谷の戦いは、1180年から1185年まで続いた治承・寿永の乱の戦いの一つである。

 一の谷の戦いの前に、宇治川の戦いで源氏側の権力争いがあり、源頼朝が勝利する。

 一の谷の戦いの後、屋島の戦いと壇ノ浦の戦いがあり、平氏の滅亡へとつながる。

 戦いの中で、義経が平氏を急襲したエピソード「逆落とし」が有名である。

 この戦いの中での平敦盛の死は、戦いの非情さと命の儚さなどを伝え、現在でも能や歌舞伎などで語り継がれている。

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