明治維新後、明治政府は東アジア諸国に対して強気な姿勢を取ります。
まるで、日本が幕末に欧米列強にされたような軍事的圧力をかけていくのです。
『江華島事件(こうかとうじけん)』は、明治政府が開国後初めて東アジアの国である朝鮮と国交をめぐって衝突した事件です。
では、どうして日本が朝鮮に開国を迫り国交を結ぼうとしたのか、という背景も見ていきながら学んでいきましょう。
目次
江華島事件とは?
(永宗城を攻撃する日本軍(想像図) 出典:Wikipedia)
改めて、江華島事件とは、1875(明治8)年「開国を拒む朝鮮と、無理やりにでも開国をさせようと迫る日本との間で起こった軍事衝突事件」のことです。
ではどうして日本はしつこく朝鮮に開国を迫ったのでしょうか?
ここからは順を追ってわかりやすく解説していきます。
明治政府の朝鮮に対する方針
この頃の朝鮮に対する方針は、大切なので押さえておきましょう。
どうしても朝鮮と国交を結んで、日本に有利な条約を結びたい明治政府は最初強気な姿勢を取っていきますが、朝鮮も断固として拒否をし続けます。
国内でも最初は強気姿勢が優位でしたが、岩倉使節団の帰国によって慎重派も出てきました。
では、日本国内で起こった強気姿勢と慎重派の争いを見ていきましょう。
①強気な姿勢「征韓論の高まり」
(西郷隆盛 出典:Wikipedia)
朝鮮は幕末以来鎖国政策を取り、外国との国交を断ちました。
ですから明治政府が朝鮮に対して国交を結ぼうと何度も要求しても、交渉態度が気に入らないという理由で拒否し続けました。
朝鮮の反抗的な態度に、日本国内では「征韓論」が高まってきます。
征韓論とは・・・西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣ら参議が朝鮮に対して武力を用いて強気な姿勢で挑み、朝鮮にも勢力を拡大していこう!という考え方です。
1873(明治6)年8月には征韓論を唱える西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣し、交渉させ、国交要求が受け入れられなければ、兵力を送って武力を用いてでも朝鮮の開国を実現させるという方針を内定しました。
つまり、幕末の日本が欧米列強に武力で脅された時と同じような行動を、朝鮮に対しても行おうということですね。
征韓論の背景
明治維新後、「四民平等」や「秩禄奉還の法」等によって、士族たちは地位や職、収入を失ったことによって明治政府に不満が溜まっていました。
政府はこの怒りを朝鮮に進出することによって少しでも解消しようとしたのです。
②慎重派「明治六年の政変」
一方で、慎重な姿勢を取る方が良いのでは?という意見も出てきました。
それは岩倉使節団として欧米に派遣されていた、大久保利通・木戸孝允らです。
彼らは1873(明治6)年9月、日本に帰国すると「国内の整備を優先するべき」と主張し、征韓論に強く反対します。
その背景には、派遣先で見た欧米列強との圧倒的な文明の差がありました。
まずは欧米列強の文明に追いつき、国内の不安定な状況を安定させてから、他国に進出した方がうまくいくのではというものでした。
結果、1873(明治6)年10月 内定していた強気な姿勢で朝鮮に挑むという方針が取り消されて、征韓論派の西郷隆盛たち参議が一斉に辞職をします。
この出来事を明治六年の政変と言います。
どうして慎重派が有利だったのに事件が起きたのか?
上記したように、明治六年の政変で朝鮮に対して強気な姿勢を主張していた征韓論派が辞職したにも関わらず、事件はなぜ起こってしまったのでしょうか?
それは、やはり明治政府が朝鮮との国交を諦められなかったことが原因です。
明治六年の政変後、政府内では朝鮮に対する外交の方針について激しく議論されました。
ですが、強気な姿勢を取るにしても一方的では印象も悪いですし、慎重な姿勢では、朝鮮に国交を迫るまでにどのくらいの年数がかかるかも分かりません。
どちらにしても、朝鮮と話し合いの場を設けられたとしても日本優位というのは難しいです。
なので、明治政府は朝鮮を挑発し向こうから攻撃をさせて、きっかけを作るという手段を取ることにしたのです。
江華島事件のきっかけ『朝鮮への挑発』
(雲揚に攻める日本軍(想像図) 出典:Wikipedia)
1875(明治8)年、明治政府は軍艦「雲揚(うんよう)」を派遣してあえて朝鮮の沿岸で測量等の挑発行為を行いましたが、朝鮮側から反応はありませんでした。
さらに、行動はエスカレートして、雲揚の艦長がボートに乗って首都漢城(現在のソウル)に近い漢江河口の江華島に近づくと、ついに朝鮮側が江華島にある砲台から砲撃をしてきたのです。
その結果、日本側つまり雲揚の艦長は正当防衛として江華島を砲撃して砲台を破壊し、近くの島に乗船していた兵たちを上陸させて永宋城(えいそうじょう)を占拠しました。この事件を江華島事件と言います。
江華島事件は地図で朝鮮の地理を確認しておくと、状況が分かりやすいです。
この事件をきっかけに、日本は朝鮮に対して圧力をかけていきます。
江華島事件の結果
朝鮮側は日本の挑発に乗り、攻撃をしてしましました。
日本がいくら挑発行為をしていたとしても、最初に攻撃をしたのは朝鮮側ですから日本はどんどんと圧力をかけて日本が有利になる条約を強制的に結ばせます。
その条約が「日朝修好条規」になります。
日朝修好条規(江華条約)の詳細
(日朝修好条規締結の様子 出典:Wikipedia)
江華島事件をきっかけに、日本は朝鮮に対して開国とともに不平等条約を結ぶことを要求します。
日本は開拓長官の黒田清隆を全権使節として艦隊6隻とともに朝鮮に派遣しました。
※全権使節:条約に関する全ての権利・責任を持ち、国家の代表として派遣された使者のこと
実は艦隊6隻も一緒に派遣したのには理由があって、ペリー来航をお手本に相手に武力を見せつけることで脅して迫ろうとしたのです。
ではどんな内容だったのでしょうか?
日朝修好条規の内容
(日朝修好条規の参考になる地図 出典:Wikipedia)
日朝修好条規の主な内容は以下の通りです。
日朝修好条規の内容
・釜山(プサン)・仁川(インチョン)・元山(ウォンサン)の開港
・朝鮮での日本の領事裁判権を認める
→ もし日本人が朝鮮で犯罪行為をした場合、裁かれるときは日本の法律で裁かれるということ
・関税免除
・朝鮮を独立国と認め、清国の宗主権(そうしゅけん)を否定する立場を取る
→ つまり、清国が朝鮮の政治の全てを管理することを認めなかったのです
上に示した4つの内容のうちの3つは日本にとって有利な条件です。
しかし、一番下の「朝鮮を独立国と認め、清国の宗主権を否定する立場を取る」というのは朝鮮にとっても国としての権利を認めてもらえるわけですから良いことでは?と感じた人も多いと思います。
ですがこれは、日本が朝鮮を支配するうえで清国の宗主権が認められたままでは、やりづらいために朝鮮を独立国として認めることにしたのです。
まとめ
✔ 江華島事件とは、1875(明治8)年に開国を拒む朝鮮と無理やり開国させようと迫る日本との間で起こった軍事衝突事件のこと。
✔ 朝鮮外交をめぐって国内で強気姿勢である征韓論派と帰国組の慎重派が争った。
✔ 江華島事件は日本の東アジア進出の第一歩となる事件だった。
✔ 江華島事件をきっかけに、日本有利の不平等条約「日朝修好条規」が結ばれた。