今でこそアジアの大国となった中国。
しかし、この国はしばらくの間列強の半植民地状態になっていた時期もあったのです。
今回はそんな中国が半植民地となってしまった『中国分割』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
中国分割とは?
(風刺画「列強国による中国分割」 出典:Wikipedia)
中国分割とは、1894年(明治27年)の日清戦争において清が日本に敗れて以降、日本やヨーロッパの国々による中国の領土や利益を分割&植民地化した一連の流れのことを指します。
清は1840年に起こったアヘン戦争から徐々に弱体化が進んでいきましたが、日清において新興国日本に敗れたことによって列強国(大国のこと)の介入を招く結果となりました。
中国の分割が行われた背景
(1910年の中華帝国の地図 出典:Wikipedia)
①アヘン戦争とアロー戦争
1840年、当時『眠れる獅子』だと恐れられてきた清はイギリスに完敗。
アヘン戦争とも呼ばれるこの戦争によって清は香港を取られてしまい、さらには清に対して不平等な条約を無理やり結ばされてしまうなど散々な目にあってしまいます。
さらに1856年にはアロー号という船が清に奪われたとしてアロー戦争が勃発します。
この戦争でも清はイギリスに完敗してしまい、この戦争によって清は香港と向かい合っている九龍半島を割譲。
さらにロシアともアイグン条約によって外蒙古と呼ばれる広大な土地を明け渡さなければならなくなってしまいました。
②日清戦争による弱体化
アヘン戦争やアロー戦争によって清はどんどん弱体化していきましたが、まだこの頃は清でも「異民族に負けて領土を明け渡したことは多々ある」としてあまり重く受け止めてはおらず、外国からもまだある程度の大国だと見られていました。
しかし、清の国内情勢はどんどん悪化します。
太平天国の乱などの国内の動乱もあったことによって近代化が行われるどころか、国内がひどい状態になっていました。
そんな清の弱体化が決定づけられたのが1894年に起こった日清戦争でした。
日清戦争では日本と清との間で起こった戦争なんですが、この戦争において清は日本に全く歯が立たず敗北。
下関にて下関条約が結ばれることとなり、多額の賠償金や台湾・澎湖諸島・遼東半島などの領地を失う結果となってしまいました。
そしてこの日清戦争の敗北が中国の分割を決定づける結果となったのです。
③中国の分割の始まり
日清戦争による清の敗北は外国の清への介入を招く結果となってしまいます。
列強諸国からすれば、25年ほど前に近代化が行われたばかりの新興国「日本」に清が負けたことは清の弱体化を世界に示す結果ともなりました。
清に負けることはないと確信した列強は、弱いものいじめとも言えるほどの清に圧力をかけていきます。
列強諸国は清が分割に対して何も言えないようにするためにまず、清に対して日清戦争の賠償金を穴埋めするぐらいの金を清に貸し与えます。
もちろん清からしたらそんな金を返す能力はほぼありませんので、列強は借金を担保に中国に敷く鉄道の利権や鉱山の採掘権を奪取。
さらに中国の領土も租借という形で外国に奪われることも多々起こるようになり、清はかつての威厳は何処へやらいつのまにか列強諸国の半植民地までに落ちぶれていったのです。
次は清がどのようにして分割されていったのかを詳しく見ていきましょう。
各国の分割の状況
①イギリス
イギリスは、清から香港や九龍半島を奪い取りました。
そして1898年、この頃中国に進出し始めていたドイツやロシアに対抗するために香港に加えて、威海衛と呼ばれる港を25年間の期限付きで清から租借させ、イギリスの極東方面の重要な港としました。
さらに奪い取った香港の権益を拡大するため、香港と清では昔からの国際港出会った広州との間で鉄道を建設します。
そして、上海や南京などの揚州江中心の華南地方と呼ばれる地域に勢力を拡大し始め、これまで南部のみであった九龍半島の北側も99年(中国語で永久という発音と同じ)の租借を受けて揚子江地域の利益を牛耳りました。
②フランス
中国分割に最初に乗り出し始めたのはイギリスではなくフランスでした。
フランスの場合インドシナを巡ってフランスと清との間で起こった清仏戦争に勝利したことによって、インドシナ半島を占領。
さらに1895年には中国南部の鉱山の採掘権や広州湾を奪い取り租借地としました。
また、フランスもイギリスと同じく奪ったインドシナ半島の権益を最大限に生かすために鉄道建設に着手し、雲南と呼ばれる地域とベトナムを結ぶ路線を建設しました。
③ロシア
ロシアの場合だとイギリスやフランスのような権益を奪うという目的の他に、不凍港と呼ばれる一年中港が凍らなくて貿易が可能な港を取ろうと必死でした。
ロシアは日清戦争によって遼東半島を獲得した日本から、三国干渉によって無理矢理清へと返還をさせ、その見返りとして遼東半島の重要都市であった旅順や大連などを租借地としました。
また、ロシアは中国東北部の地域である満州の権益を獲得。極東の都市であるウラジオストクから東清鉄道と呼ばれる鉄道を建設してさらに満州の鉱山の採掘権を獲得したのでした。
ちなみに、この東清鉄道がのちの南満州鉄道の路線となるのです。
④ドイツ
ドイツはイギリス・フランス・ロシアとは違い、統一したのが1871年と日本よりも遅いということもあり、外国の植民地がほとんどなかったというネックがありました。
そのためドイツも権益を得ようと、宣教師の殺害を理由に1897年に山東省の膠州湾を占領します。
この港を租借地とし、さらに膠州湾と山東省を結ぶ山東鉄道を建設。
山東省一帯をドイツのものとして1918年の第一次世界大戦に敗北するまでこの地を植民地としました。
⑤日本
清の弱体化を決定づける日清戦争を起こした当事国である日本。
日本は三国干渉によって遼東半島を手放したものの、粘り強く台湾を中心として権益拡大に着手していました。
その結果、清との間に福建省不割譲条約という「清は福建省を外国に売りません」という条約を結ばせ、実質的に日本の影響下に置くことに成功しました。
そして日本はその後も中国の権益を狙うようになり、のちの日中戦争へと繋がっていくのです。
⑥アメリカ
中国分割で一番出遅れた国。それは何と言ってもアメリカでした。
アメリカはフィリピンの獲得に手こずったり、南北戦争の傷がまだいえなかったなどの理由があって進出に出遅れました。
しかし、アメリカ国務長官であったジョン・ヘイは門戸開放という中国を分割せず、みんなで共有しようという一見したら素晴らしい案を提案します。
しかし、これは要するに『アメリカにも権益を分けろ!』といった要求を各国に突きつけたものでした。
ただ、列強諸国はこれに対して知らんぷり。アメリカが中国分割に参加することは叶いませんでした。
中国分割のその後
中国分割は列強諸国の帝国主義と呼ばれる世界分割の象徴的な出来事だと思われるようになり、列強からしてみてもアフリカと並んで中国は鉱山などの権益がたくさんある土地でした。
しかし、1912年に辛亥革命が起こったり、1914年から始まった第一次世界大戦が起こると状況は一変します。
イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどは第一次世界大戦によって大損害を受け、植民地どころの話ではなくなってしまい、さらにドイツやロシアなどは革命によって国が大きく変わるなどの変革も起こりました。
そのため、中国の権益を握るようになったのは第一次世界大戦にあまり積極的に参加していなかった日本のみとなり、ここから先、第二次世界大戦に日本が敗戦するまでこの中国の権益についてのトラブルが多発するようになったのでした。
まとめ
✔ 中国分割とは、日清戦争以降に列強諸国が中国に続々と進出した流れのこと。
✔ 中国分割ではイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本などが行い、アメリカは中国分割に出遅れる一方で門戸開放を訴えた。
✔ 中国分割は中国から鉄道の建設権や鉱山の採掘権や租借などを行いながら拡大していった。
✔ 中国分割は第一次世界大戦以降日本が牛耳るようになり、第二次世界大戦に日本が敗れるまで続いた。