【アロー戦争とは】わかりやすく解説!!原因(きっかけ)や勝敗結果・影響など

 

アヘン戦争は、麻薬のイメージもあってとても知名度が高い戦争です。

 

それに比べると、アロー戦争って何?と思う人も多いでしょう。

 

アロー戦争は別名第二次アヘン戦争ともよばれ、アヘン戦争と深く関連した戦いでした。

 

今回は『アロー戦争』はどんな戦争だったのか?原因や勝敗結果・影響など、わかりやすく解説していきます。

 

アロー戦争とは

(広州に攻め込む英仏連合軍 出典:Wikipedia

 

 

アロー戦争とは、1856年~60年にかけておきた清国とイギリス・フランス連合軍が戦った戦争です。

 

勝利したイギリス・フランスは南京条約よりも多くの港を開港させ、中国の半植民地化を進めました。

 

一方、やぶれた清朝は洋務運動と呼ばれる近代化を進めました。

 

アロー戦争の背景・原因

①イギリスの不満

イギリスは1840年~42年のアヘン戦争に勝ち、南京条約を結ばせました。

 

このときに、自由貿易を約束させたのですが、イギリスが思っているよりは輸出が伸びませんでした。

 

また、何かトラブルがあった時に清国にクレームをつけようにも、首都の北京にイギリス人が駐在することが認められなかったので、いちいち、広州の担当者を通さなければなりませんでした。

 

イギリスはもっと貿易を盛んにさせるために開港場を増やすことと、清朝に要求を突きつけやすくするため、北京に外交官を置くことを望んでいました。

 

そのため、イギリスは清国に圧力をかけて自国に有利にしようと考えていました。

 

 

②フランスの思惑

当時のフランスは皇帝ナポレオン3世の時代。

 

ナポレオン3世は世界各地に植民地を拡大する政策をとっていました。

 

ちょうどそのころ、フランスは宣教師の殺害問題で清国とトラブルを抱えて交渉中でした。

 

③好機到来!太平天国の乱

アヘン戦争の敗北後、賠償金の支払いなどをするため清朝は民衆に重税を課しました。

 

また、貿易によって中国から銀がでていくことで物価が上昇。民衆は増税と物価高に苦しんでいました。

 

清国の支配を倒して、新たな国を作ろうと呼び掛けた洪秀全は、南京を占領して太平天国の建国を宣言しました。

 

清国は自前の軍隊で鎮圧しようとしましたが、全く役に立ちませんでした。

 

そこで、地方の有力者だった郷勇たちが中心となり太平天国と戦いました。

 

 

アロー戦争の全容

(アロー事件 アロー号に乗り込む清国兵 出典:Wikipedia

①戦争のきっかけ『アロー号事件』

1856年、広州湾に停泊していたアロー号に清国の役人たちが踏み込み、海賊や密貿易の容疑で船員たちを捕らえました。

 

この時に、アロー号に掲げられていたイギリス国旗を引きずり下ろしたとして、イギリス領事のパークス(のちに日本にくる、あのパークスです)が猛抗議をしました。

 

当時、アロー号はイギリス船籍としての期限が切れていたので本当は誤った抗議なのですが、戦争を吹っ掛ける口実なので強引に事を進めたのかもしれません。

 

②戦争の始まり

アロー号事件を口実に、イギリスはフランスと共同で清朝に出兵しました。

 

清国に不満を持っていたフランスもイギリスに同調したからです。

 

圧倒的に強いイギリス・フランス連合軍は1857年に広州を占領、天津郊外の砲台も占領し首都北京に迫ろうとしました。

 

 

(砲台へ攻め込むイギリス軍 出典:Wikipedia

 

 

清国はイギリス・フランスの軍事力に屈し、講話交渉に臨みました。

 

③天津条約

主な内容は、アヘン戦争で開いた港+10港の開校と外国公使の北京駐在、キリスト教の布教自由、アヘン貿易の公認などでした。

 

賠償金の支払いもあったので、清国にとっては屈辱的な条約です。

 

 

そのため、反対派も数多くいました。

 

反対する人々はイギリス・フランスの使節団めがけて、勝手に砲撃してしまいます。

 

これによって、戦争は再開してしまいました。

 

④北京占領

(円明園を制圧した英仏軍 出典:Wikipedia

 

 

砲撃事件に起こった連合軍は、すぐに軍を北京に差し向け、占領してしまいました。

 

このときに、北京郊外にあった皇帝の離宮の円明園が徹底的に略奪され、破壊されました。

 

円明園はヨーロッパ人のカスティリオーネが設計したバロック式の豪華な宮殿だったと伝えられます。

 

⑤ロシアの登場

ちょうどそのころ、清国と北の国境をめぐって争っていたのがロシア帝国です。

 

ロシアはアロー戦争や太平天国の乱で身動きが取れない清国とアイグン条約を結びました。

 

アイグン条約ではアムール川を国境とし、それより北の土地をロシアに譲るとされました。

 

アロー戦争でますます混乱する清国に対し、ロシアは仲介を申し出ます。

 

しかし、それには彼らなりの計算がありました。それは、混乱に乗じて沿海州を割譲させ、海への出口を手に入れることでした。

 

⑥清国の完敗。北京条約へ

首都を占領され、どうしようもなくなった清国はロシアの仲介を受け入れて北京条約を結びました。

 

天津条約の内容に加えて、天津を開港することと、ロシアに沿海州を譲ることが追加されました。

 

沿海州にはウラジオストークが建設され、ロシア極東の拠点となりました。

 

こうして、アロー戦争は清国の完敗で幕を閉じました。

 

 

アロー戦争の影響

(破壊された広州の通り 出典:Wikipedia

①清国の半植民地化が加速した

欧米との力の差が歴然となった清国は、欧米に次々と侵略されるようになります。

 

アヘン貿易を公認させられ、銀が国外に流出しさらに国力を弱めました。

 

②太平天国の乱の鎮圧

北京条約を結んだ欧米は、この条約を守らせるためにも清国を存続させようと動きます。

 

ゴードンらの常勝軍は、郷勇とともに太平天国軍と戦いこれを滅ぼしました。

 

③洋務運動の始まり

圧倒的な科学技術の差を目の当たりにした曾国藩や李鴻章らは、欧米の技術力を積極的に導入しようとしました。これを、洋務運動といいます。

 

しかし、政治制度や文化は従来の中国ままでよいとする中体西用の考え方であったため、日本の明治維新と比べると中途半端に終わりました。

 

日清戦争で清国が日本に負けたことにより、洋務運動は失敗に終わりました。

 

④日本への影響

アロー戦争のころ、日本に赴任したアメリカの総領事がハリスでした。

 

ハリスは日米修好通商条約の締結をもくろんでいました。

 

ハリスは幕府に対してアロー戦争の内容を告げ、このまま通商条約を結ばないでいると、イギリスやフランスがアロー戦争で買った勢いで日本にも攻めてくるかもしれないと幕府にプレッシャーをかけます。

 

これに押されることで、幕府も日米修好通商条約を結ぶ方向に進み始めました。

 

 

まとめ

 アロー戦争はアヘン戦争とセットの戦争。別名、第二次アヘン戦争とも呼ばれている。

 イギリスは太平天国の乱で苦しむ清国の苦境に乗じて戦争を開始した。

 一度は天津条約を結ぶが、清国内の反対派による砲撃で失敗した。

 連合軍は北京を占領。その時に円明園を破壊。

 ロシアの仲介で北京条約を締結した。

 ハリスはアロー戦争を利用して幕府に通商条約締結を迫った。