【枢密院とは】簡単にわかりやすく解説!!設置された理由&役割・内閣との関係など

 

時代とともに政治の仕組みは大きく変わります。

 

歴史を勉強する時はその流れもしっかりと覚えなければいけません。

 

今回説明する枢密院(すうみついん)は戦前あった日本の政治機関でした。

 

しかし、枢密院がなぜあるのか?どんなことをしていたか?ということを忘れていたりわからなかったりしている人もいるはずです。

 

今回はそんな『枢密院ができた理由や役割』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

枢密院とは

(1888年全会一致で可決した枢密院本会議 出典:Wikipedia

 

 

枢密院とは、1888年(明治21年)に大日本帝国憲法を作るときに設置された憲法をどのような感じにするのかを決める機関のことです。

 

大日本帝国憲法が発布された後は天皇の最高諮問機関として残りました。

 

諮問というのは意見などを尋ねたり相談したりするという意味で枢密院は天皇から『この場合どうすればいいか?』を尋ねられた時に会議をする機関でした。

 

枢密院ができるまで

(伊藤博文 出典:Wikipedia

 

 

1888年、伊藤博文は夏島という場所でせっせと憲法の草案(下書き)を作成していました。

 

この憲法はいわゆる欽定憲法と呼ばれるもので天皇が主権の憲法でした。

 

 

伊藤博文はなんとかこの年の10月に憲法を完全させます。

 

そして最後の仕上げとして議論を交わす時に作られたのが枢密院でした。

 

枢密院では伊藤博文自らが議長となり、草案などを細かくチェックしたり、付け加えたりしてなんとか完璧な憲法に仕上げます。

 

そして1889年大日本帝国憲法は発布され、日本はアジア初の立憲国家となりました。

 

枢密院は憲法ができたことにより本来の意味としての役割を終えますが、枢密院自体は無くならずにそのまま憲法についての問題を議論する場として残ります。

 

このため枢密院は憲法の番人とも呼ばれました。

 

枢密院の役割

(枢密院議長の公印 出典:Wikipedia

①諮詢(しじゅん)

大日本帝国憲法によると枢密院は重要な国務に対して議論する場とされました。

 

主な内容は以下の通りです。

内容

憲法の改正

法律の制定の審査

法律の違憲審査

緊急勅令

栄典、恩赦などの決定

国際条約の締結

皇室典範に書かれている枢密院の権限としての役割

枢密院の官制と事務規程の改正

戒厳の宣告

教育に関する重要勅令

行政各部の官制など官規に関する勅令など

 

(※戒厳というものは今でいうところの国家非常事態宣言みたいなもので、日本では日比谷焼打事件・関東大震災・二・二六事件の時にしか出されませんでした)

 

ちなみに今ではこういうことは内閣がやっています。

 

しかし、注目してほしいのは議論している内容ではなく諮詢(しじゅん)というところ。

 

諮詢という言葉はあまり聞きなじみのない言葉ですが、この言葉の意味は提案するという意味で枢密院はあくまでも天皇に重要な国務を議論した結果を提案するという役割でした。

 

つまり枢密院は自分で決める権限はなかったのです。

 

②権限

枢密院が自ら決定する権利はありませんでしたが、皇室関連の問題は特別に決定する権利がありました。

 

例えば摂政の設置や皇位継承問題、皇女などの結婚による臣籍降下(皇族をやめること)などは同じく皇族の問題を議論している皇族会議とともに内閣を超える国家の最高決定機関となりました。

 

また権限の争いについての裁判も枢密院が行うとなっていました。

 

③議会

枢密院の会議は天皇の意向を聞いて開かれていました。

 

しかし、ここでやる会議は内閣に対して交渉する内容を決めるだけで議会や国民との交渉はできませんでした。

 

内閣との関係

枢密院と内閣は時折意見が対立していましたが、大体はどちらが折れるケースがほとんどでした。

 

しかし、政党とは仲が悪く、特に政党嫌いで知られている山縣有朋が元老だった時は枢密院の議長として政党内閣に対して反政党の意見を提出していました。

 

枢密院が活躍した事件

(1888年 枢密院会議之図)

①台湾銀行救済事件

1927年、台湾の特産品の樟脳やバナナなどを売っていて日本の経済を回していた商社『鈴木商店』が金融恐慌によって倒産してしまいました。

 

鈴木商店の倒産は各地で衝撃を与えて特に鈴木商店にお金を貸していた台湾銀行という銀行は膨大な負債を負うこととなり、銀行までも倒産してしまう危機になってしまいます。

 

銀行が潰れるということはその銀行にお金を預けている人がお金を引き出すことができなくなるということです。

 

『そんな最悪の事態は避けたい!』と思った民衆はわれ先にと銀行に行ってお金を引き出そうと押し寄せます。これを取り付け騒ぎと呼びます。

 

この取り付け騒ぎによって台湾銀行は休業に追い込まれます。

 

これはまずいと思った当時の内閣である若槻内閣は、なんとか台湾銀行を助けるために台湾銀行救済特別勅令というものを出しました。

 

しかし、枢密院はこの緊急勅令案に反対してこの話は無しとなります。この結果若槻内閣は総辞職に追い込まれてしまいました。

 

枢密院が反対した理由は台湾銀行だけを特別扱いするのは良くないという理由もありましたが、本当はこの時行われていた幣原外交が軟弱すぎて枢密院が不満を持っていたからわざと否決して総辞職に追い込もうとしたという理由もありました。

 

ちなみに枢密院の否決によって内閣を総辞職するのはこれが唯一でした。

 

②統帥権干犯問題

統帥権とは全ての陸海空軍の総指揮をとる権利という意味で天皇が持っていました。

 

1930年ロンドンで海軍軍縮会議が行われて日本は海軍の保有する戦艦の数を制限します。

 

これに対して怒るのはもちろん海軍などの軍部でした。さらにこれをチャンスと感じた野党の政友会という党も批判していきます。

 

海軍や枢密院や政友会は内閣そもそもが憲法にきっちり記載していないことや軍部の総指揮は天皇が持っていることを利用し、『政府が天皇の許可を得ずに勝手に条約を結んだりするのは統帥権干犯だ!』と内閣を批判しました。

 

この批判によって当時の内閣総理大臣であった濱口雄幸は東京駅で右翼の少年に刺され内閣を総辞職します。濱口雄幸自身もこの時受けた傷によって亡くなりました。

 

結果的に軍部の意見が通り、これから先軍部の暴走を内閣は止めることができなくなっていきました。

 

まとめ

・枢密院は大日本帝国憲法を作るときに伊藤博文によって作られた機関のこと。

・枢密院は大日本帝国憲法が出来た後は憲法について議論する機関として残った。

・枢密院によって内閣が総辞職する場合もあった。