将軍継嗣(けいし)、つまり、将軍の跡継ぎについてまきおこった問題を将軍継嗣問題といいます。

 

では、誰の跡継ぎ?それは、13代将軍の徳川家定の跡継ぎ問題です。江戸時代、各地の藩でも藩主の座をめぐるお家騒動はたくさんありましたが、幕府の将軍ともなるとだれがなるかで日本中が影響を受けますよね。

 

今回は将軍の跡継ぎ争いである、将軍継嗣問題についてわかりやすく解説していきます。

 

将軍継嗣問題とは

(13代将軍徳川家定 出典:Wikipedia

 

 

将軍継嗣問題とは、江戸幕府13代将軍徳川家定の跡継ぎをめぐる争いのことです。

 

家定は病弱で将軍になった時から、跡継ぎを心配されていました。1857(安政4)年、跡継ぎが決まらないまま家定の病気が悪化したことで譜代大名や有力藩の藩主たちが2グループに分かれて争いました。

 

将軍継嗣問題の背景

①徳川家定の将軍就任

1853(嘉永6)年、12代将軍の徳川家慶が死去しました。それに伴って、跡継ぎとされていた家定が将軍になります。

 

家定は病弱で、老中や諸大名は心配したのですが、家慶の子供で唯一生き残っていたの家定だったので、彼が将軍になりました。家定を補佐したのが老中首座の阿部正弘でした。

 

(阿部正弘 出典:Wikipedia

 

②ペリー来航!日米和親条約でついに開国

1853(嘉永6)年6月、神奈川県の浦賀沖に軍艦を率いたペリーが来航しました。アメリカ大統領の親書を持参し、日本に開国を要求したのです。

 

阿部正弘はペリーに来年の回答を約束し、ひとまず、退去させました。翌月にはロシアのプチャーチンが長崎に来航し、開国を求めました。さすがに、鎖国を続けるのは難しくなってきました。

 

阿部は、全国の諸大名に対して意見を求めます。これまで、外交問題は幕府が判断し対応してきましたので、意見を諸大名に求めるのは異例のことでした。それだけ、切羽詰まっていたといえるでしょう。

 

そして、1854(安政元)年、再び来日したペリーと日米和親条約を結びました。

 

 

③ハリス着任

1856(安政三)年、アメリカ総領事としてハリスが着任しました。ハリスは日米和親条約の内容に不満でした。そのため日本と貿易し、アメリカに有利な条約を結びたいと考えたハリスは幕府に強い圧力をかけます。

 

ちょうどそのころ、イギリスやフランスと清国がアロー戦争を戦っていました。

 

 

この戦争の情報を利用して、ハリスは「いずれ、イギリスもフランスも日本に戦争を仕掛けて、植民地にしようとするかもしれません。その前に、自分から貿易をする条約(通商条約)を結んでいたほうが、戦争を仕掛けられずに済むかもしれませんよ」と開国を迫ったのです。

 

④将軍家定の病状悪化

家定には京都から迎えた正室や薩摩藩出身で京都の近衛家の養女となっていた篤姫など複数の夫人がいましたが、いずれも男子に恵まれませんでした。

 

1857(安政4)年、病状は急速に悪化。将軍の後継者を一刻も早く決めなければいけなくなりました。

 

将軍継嗣問題の発生

①将軍後継者の条件

将軍継嗣問題が発生したのは、1857(安政4)年10月から1858(安政5)年10月までです。

 

将軍の跡継ぎ条件は・・・

後継者の条件

将軍家と血のつながりが近い御三家(尾張・紀伊・水戸)か御三卿(田安・一橋・清水)から選ばなければならない。(それ以外は徳川でも、松平でもダメ)

1857(安政5)年段階での有力候補者は紀伊藩主の徳川慶福(12歳)、一橋家当主の一橋慶喜(21歳)の2名

 

②対立する2つのグループ

南紀派

徳川慶福を推薦するグループ。リーダーは譜代大名トップの井伊直弼です。

 

徳川慶福は家定と同じく11代将軍徳川家斉の孫で、徳川本家と血のつながりが深いです。そのことを理由に、血筋優先で跡継ぎを決めるべきと主張します。

 

多くの譜代大名や幕府の家臣(幕臣)や大奥が支持しました。

 

一橋派

一橋慶喜を推薦するグループ。阿部正弘が諸藩に意見を聞いて以来、発言力を強めた有力藩の藩主たちが中心でした。

 

前の水戸藩主徳川斉昭(慶喜の父)や越前藩主の松平慶永、薩摩藩主の島津斉彬、土佐藩主の山内豊信、宇和島藩主の伊達宗城らでした。これらの藩は雄藩と呼ばれ、経済力や軍事力をつけてきた藩でした。

 

彼らは、ハリスなどの外圧に対抗するためには強力な将軍が必要で、成人でかつ聡明な一橋慶喜が将軍になるべきだと主張しました。

 

③井伊直弼の大老就任

(井伊直弼 出典:Wikipedia

 

 

ハリスの要求を受け、通商条約を結ぶことを考えた老中首座の堀田正睦は京都に行き、孝明天皇の許可(勅許)を得ようとします。しかし、外国勢力を嫌う孝明天皇は勅許を出しません。

 

事態を何とかするため、老中よりも権威がある大老に井伊直弼が就任しました。井伊は勅許を待たず、幕府の判断で日米修好通商条約を結びました。

 

 

④問題の決着

井伊直弼の大老就任で、将軍継嗣問題は一気に南紀派の有利になります。大老は老中とは違い、将軍に次ぐ権威が認められています。

 

1858(安政6)年、家定の名で将軍の跡継ぎを紀伊藩主徳川慶福とすることが発表されました。

 

(徳川家茂像 出典:Wikipedia

 

 

これによって、将軍継嗣問題は決着。南紀派が勝利し一橋派が敗れました。徳川慶福は家茂と名を改め、家定の死後に14代将軍となりました。

 

その後の政治

①安政の大獄

将軍継嗣問題に決着をつけた井伊直弼は幕府の権力を強めようと考えます。この当時、井伊に反対していたのは将軍継嗣問題で敗れた一橋派と通商条約に反対していた尊王攘夷派です。

 

この二つを井伊はいっぺんに弾圧しました。世にいう安政の大獄です。朝廷の上級貴族である公卿や一橋派の大名、活動する志士らを次々と隠居させたり、処刑したりし反対派を一掃しました。

 

 

②桜田門外の変

安政の大獄で反対派を徹底的に弾圧した井伊直弼に恨みが集中しました。

 

自分の屋敷から江戸城に登城する途中、尊王攘夷派が井伊直弼を襲撃し討ち取ってしまいました。桜田門外の変です。

 

現職の大老がテロで暗殺されるのは前代未聞。幕府の力が弱まっていることを天下に示す結果となり、以後、幕府の力は目に見えて衰えていきました。

 

 

まとめ

・将軍継嗣問題とは、13代将軍徳川家定の跡継ぎをめぐる争いのこと。

・跡継ぎを争ったのは紀州藩主の徳川慶福と一橋家の一橋慶喜。

・徳川慶福の支持者は井伊直弼などの譜代大名。

・一橋慶喜の支持者は雄藩の藩主たち。

・争いは井伊直弼の大老就任で南紀派が勝利。

・徳川慶福は14代将軍徳川家茂となった。

・井伊直弼は安政の大獄で一橋派などを弾圧したが、桜田門外の変で暗殺された。




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