“岐阜事件”といってすぐにわかる人は少ないかもしれませんが、“板垣退助の事件”といえばピンとくる人もいるのではないでしょうか。
歴史の教科書で風刺画など一度は見たことがあるかもしれません。
今回は、この『岐阜事件』の内容やその背景についてわかりやすく解説していきます。
目次
岐阜事件とは?
(岐阜事件 出典:Wikipedia)
岐阜事件とは、1882年(明治15年)4月6日、岐阜にて当時自由党の党首であった板垣退助が暴漢に襲われた事件のことです。
有名な言葉である『板垣死すとも自由は死せず』がこのとき発せられたとされています。
岐阜事件が起こった背景と理由
ここで、「岐阜事件」が起こった頃の情勢などを確認しておきましょう。
①明治政府への期待と失望
江戸から明治になり、“すべての政治は人々の話し合いによって決めること”などとする
方針を『五箇条の御誓文』で示した新政府でしたが、実際は倒幕の中心であった薩摩・長州・土佐・肥前の4藩出身者や少数の公家が要職を固めて実権を握っていたのです。
藩閥政治(はんばつせいじ)と呼ばれたこの政治は民衆の期待を大きく裏切るものでした。
②新しい思想
明治政府は近代化を進める中で、土台となる“文化”を積極的に取り入れていきます。
いわゆる「文明開化」ですが、これは生活習慣の変化だけではなく、人々に思想の変化までもたらしていったのです。
例えば、お札の肖像画としても有名な福沢諭吉は著書「学問のすゝめ」で平等主義を人々に分かりやすく説き、岩倉使節団に参加していた中江兆民はヨーロッパの近代革命に影響を与えた啓蒙思想家(けいもうしそうか)ルソーの思想を紹介しました。
③政府への反発
藩閥政治が続く中、政府に対する人々の不満が様々な形で表面化していきます。
特権を失った士族たちは【武力】で対抗しようとし、西日本を中心に各地で反乱を起こしましたが、次々に政府軍により鎮圧されてしまいました。
それに対し、【言論】で政府に働きかけて“国民が政治参加できる権利の確立を目指す”「自由民権運動」が起こります。
この運動の中心だったのが「岐阜事件」の被害者であった板垣退助でした。
④運動の拡がりと政府の弾圧
「自由民権運動」は各地で演説などを行い人々の支持を集めていきますが、それに対して政府は「新聞紙条例」や「集会条例」などを出し数々の弾圧を行います。
政府にとって非常にやっかいな存在だったことが安易に推測できますね。
さらに天皇から10年後の国会開設を約束する「国会開設の勅諭」が出されたことで、板垣は「自由党」という政党を結成し、さらに精力的に活動を進めていったのです。
岐阜事件の詳細
(板垣退助 出典:Wikipedia)
「岐阜事件」は別名「板垣退助の遭難」と言われています。
「遭難」と聞くと山や海で行方不明になるイメージですが、元の意味は『命にかかわるような危険な目にあうこと』であり、広義では暗殺なども含んでいるのです。
①事件のあらまし
自由党の党首として東海地方への遊説をしていた板垣は、4月6日午後6時頃岐阜の金華山ふもとの中教院という場所での演説を終えて宿泊先に戻ろうとしたところ、短刀をもった相原尚褧(あいはらなおぶみ)に襲われます。
柔術も会得していた板垣は当て身で犯人をひるませますが、その後もみ合った際に数か所刺されてしまいます。
幸いにも命に別状はありませんでした。
そのまま板垣は宿に運ばれますが、政府の圧力を恐れたのでしょうか。岐阜県当局は治療をためらっていたそうです。
翌日医者後藤新平が治療を施し、事なきを得ますが、板垣も後藤を当初政府の刺客かと思い、会うのを拒んだと言われています。
(後藤新平 出典:Wikipedia)
命の危険をつねに感じて活動を行っていたのでしょうか。
②周囲の対応
「板垣遭難」の情報を受けた自由党本部や各地の自由党員をはじめ、立憲改進党を結成していた大隈重信からも使者が送られ、岐阜は民権活動家の行き来で凄いことになっていたようです。
政府も連絡を受けて閣議を中止して明治天皇に上奏、天皇の勅使が訪れ、お見舞い金も下賜されたそうです。
板垣が単なる一活動家ではなかったということがよく分かりますね。
③板垣死すとも自由は死せず
この有名な言葉は事件の際、板垣が叫んだとされていますが、実際は暴漢に襲われて声も出なかったとか、側にいた内藤魯一が叫んだという説もあります。
ただ、板垣は似たような言葉として「我死するとも自由は死せん」と言ったらしく、新聞に載る際に少し変化したのかもしれませんね。
いずれにせよ非常にインパクトのある言葉で、板垣のカリスマ性を高めたと言っても過言ではないと思われます。
④犯人の動機とその後
犯人相原は小学校教員で温和な人でした。
しかし、政府寄りの新聞『東京日日新聞』の熱心な愛読者だったらしく、民権思想を唱える板垣が許せなかったとのことです。
事件後その場で逮捕され、無期懲役を科せられますが、後に憲法発布時の恩赦にて釈放されました。
板垣自らが彼の罪を軽くするよう特赦を願い出ていたと知り、相原は釈放後板垣に謝罪に行きます。
その際に板垣は逆に相原を慰め、「国を思っての行動だったのだろうから、今後自分(板垣)が良くない方向にいきそうになったら再度刺しに来ていい」と言って寛容な態度で受け入れたそうです。
ちなみに相原はその後すぐ自殺か他殺かわからない方法で亡くなりました。
実は裏で板垣暗殺を主導していた人がいたかも…などと噂されていますが、真相は闇の中です。
岐阜事件のその後の影響
(遭難の地に建つ板垣退助の銅像 出典:Wikipedia)
この事件が与えた影響についてみていきましょう。
①民権運動の激化と衰退
岐阜事件が新聞で報道されることで、民権運動はさらに多くの民衆の心をひきつけていきました。
また未遂とはいえ暗殺の手段がとられた為、以後多くの運動も激化していくことになります。
県令が自由党員を弾圧した福島事件や栃木県令らの暗殺未遂をした加波山事件などが知られていますね。
その結果、激化事件の責任をとるような形で自由党は解散となってしまい、運動も休止状態になっていったのです。
②目的の達成
その後、政府は勅諭を守り着々と制度改革を進めました。
1885年に内閣制度ができ、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任、そして伊藤を中心に憲法の草案を作成&審議していきます。
(伊藤博文 出典:Wikipedia)
そして1889年2月11日天皇が国民に与えるという形で大日本帝国憲法が発布されました。
憲法では天皇を元首と定めて帝国議会の召集権限などが与えられ、国民は「臣民」とされて議会の定める範囲での言論や思想、集会、結社、信仰など自由が認められました。
納税など様々な制限はあったものの、衆議院において国民の国会参加への道が開かれました。
1890年に初の帝国議会が開かれ、日本はアジアで初の近代的な立憲国家になったのです。
まとめ
✔ 「岐阜事件」とは1882年4月6日岐阜にて遊説中の自由党党首板垣退助が襲われた事件のこと。
✔ 事件で板垣は数か所刺されたが命に別状はなかった。
✔ 犯人の相原尚褧(あいはらなおぶみ)は政府よりの思想に傾き、民権思想を唱える板垣が許せず犯行に及んだとされる。
✔ 犯人は無期懲役になった後、恩赦で釈放されたが、すぐに不審死をしている。
✔ 「板垣死すとも自由は死せず」という名言は本人談であるかは微妙だが、板垣をカリスマ指導者とするエピソードとしても非常に有名である。
✔ 国民が政治に参加する権利を求める【自由民権運動】が国会開設を促し、その運動のリーダーが事件の被害者でもあった板垣退助である。
✔ 「岐阜事件」後に【自由民権運動】は激化し、そして沈静化していったが、この運動が日本をアジア初の立憲国家へとする原動力になったともいえる。