【前期倭寇と後期倭寇の違い】そもそも倭寇とは?簡単にわかりやすく解説!

 

倭寇と言えば、歴史の教科書上では「海賊」と理解している人が多いでしょう。

 

また、倭寇について内容までは詳しく習った覚えがないと感じる人もいるかもしれません。

 

ここでは『前期倭寇と後期倭寇』について理解を深め、その違いをしっかり押さえるようにしましょう。

 

倭寇とは?

(倭寇 出典:Wikipedia

 

 

では、前期倭寇と後期倭寇について詳しく見ていく前に「倭寇」について理解しておきましょう。

倭寇とは

「倭」・・・本来地域名を表しており、日本の周辺を指しています。「倭国」=「倭の地域にある国」ということになります。

「寇」・・・国外からの侵入、外敵が侵入して害を加える、財を奪い取るという意味。

 

これらの意味から、歴史で習う倭寇は「13世紀から16世紀に、倭のあたり(東アジア)で海賊行為を働いていた人たち」ということになります。

 

前期倭寇と後期倭寇の違い

 

 

前期倭寇、後期倭寇の違いについて先ずは前期と後期の示している時期は以下の期間になります。

時期的な違い

 前期倭寇の示す期間・・・1314世紀、鎌倉時代末~南北朝の動乱期の頃(室町幕府初期)

 後期倭寇の示す期間・・・1516世紀、勘合貿易が終わった以後(戦国時代)

 

前期倭寇、後期倭寇では海賊行為をしていた乗組員の構成も異なっているとされています。

 

その違いは以下のようになります。

構成される人の違い

 前期倭寇・・・日本人主体

 後期倭寇・・・中国人主体

 

前期倭寇と後期倭寇の詳細

(右:倭寇船 左:明の官船)

 

 

時期によって前期と後期に分けられる前期倭寇と後期倭寇についてその活動や目的など、詳細を見ていきましょう。

 

①前期倭寇の詳細

前期倭寇は鎌倉時代末~南北朝の動乱期の頃(室町幕府初期)に、日本人を中心とした構成で海賊行為をしていた人たちです。

 

前期倭寇の詳細

☑ 活動の始まり:元寇の後、情勢が不安定になっていた高麗(朝鮮)の隙をついて略奪を行ったのが始まりとされています。

 

☑ 活動していた場所:高麗(朝鮮)の沿岸、中国沿岸

 

☑ 活動していた人の構成:対馬・隠岐・肥後松浦地方の三島の土豪や商人、漁民である日本人と高麗(朝鮮)の海賊が加わって武装

 

☑ 目的:略奪する物は主に食糧。人を略奪していたともいわれています。

 

②後期倭寇の詳細

後期倭寇は勘合貿易が終わった16世紀半ば(戦国時代)に中国人を主体とした構成で密貿易を行っていた人たち。

 

前期倭寇の詳細

☑ 活動の始まり:元勘合貿易が廃絶し、明の海禁政策に反して武装貿易集団が密貿易を始めました。

 

☑ 活動していた場所:中国南部である東シナ海

 

☑ 活動していた人の構成:大部分は中国人。日本人は少数でした。

 

☑ 目的:海賊行為の他に密貿易を行っていました。日本の銀と中国の生糸の密貿易を行い金を得ていました。

 

倭寇の鎮静化

 

 

前期倭寇、後期倭寇の活動が沈静化した流れについて詳しくみていきましょう。

 

①前期倭寇の鎮静化

前期倭寇の活動によって、物や人の略奪にあった高麗(朝鮮)は困惑して日本に対して倭寇を禁ずるように求めましたが、当時の日本は国内の戦乱で、倭寇の鎮圧に手が回らない上程でありました。

 

ようやく国内の戦乱が終息し、室町幕府3代将軍足利義満は明と正式に国交を結び日明貿易(勘合貿易)を始めました。

 

 

この勘合が用いられたことにより前期倭寇は沈静化することになります。

 

勘合貿易で用いられた勘合符は割符とも呼ばれ行き来する国が半券ずつ所持し照合することで取り引きが成立する仕組みになっていました。

 

正式な貿易をさせることで倭寇の活動を押さえたのでした。

 

②後期倭寇の鎮静化

後期倭寇が活動していた時代、日本は豊臣秀吉の時代でした。

 

豊臣秀吉は1588年に海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)によって、西国の大名に対し、海賊全般の取り締まりを命じました。

 

西国の大名に取り締まりを命じた理由としては、当時西国の大名は貿易で利益を得ている場合が多く、海賊と友好的な関係を築いていた者もいたからです。

 

そこで、大名が海賊を取り締まることで密貿易をなくすという狙いがあったのです。

 

この法令によって海賊は取り引き相手が縮小されました。

 

また、同時期に明も倭寇の取り締まりを強化したこともあり、後期倭寇は衰退していったのでした。

 

前期倭寇時代の出来事

 

 

前期倭寇が活動していた頃、日本と朝鮮との間に起きた大きな事件として応永の外寇(おうえいのがいこう)があります。

 

この事件によって倭寇が衰退することはありませんでしたが、朝鮮側による対倭寇を掲げた襲撃として覚えておきましょう。

 

応永の外寇について

前期倭寇が朝鮮半島の各地で活動していた頃。

 

応永26年、倭寇の被害に悩む李氏朝鮮が、倭寇の根拠地とみなした対馬に対し、兵船227隻で襲撃した事件が起こります。

 

これを応永の外寇と言います。

 

李氏朝鮮の軍勢は17285名、対する対馬は武士が600名程度であったとされています。

 

朝鮮軍は対馬に到着したその日のうちに対馬の船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜としました。

 

しかし、対馬(当時の島主は宗貞盛)の激しい抵抗により主要な将校が戦死若しくは捉えられるなどした朝鮮軍は劣勢となっていきました。

 

最終的には朝鮮側は対馬に10日間滞在し大敗しました。

 

後期倭寇とポルトガル人


後期倭寇について調べていくと、乗っていた人の構成の多くは中国人とされていますが、少数の日本人とポルトガル人も含まれていたとされています。

 

中学校の教科書では鉄砲伝来と関連付けて

 

「1543年,種子島(鹿児島県)に漂着した倭寇の船に乗っていたポルトガル人によって,日本に鉄砲が伝わりました。」

 

と明記されている場合もあります。

 

これによって「鉄砲は倭寇の船に乗っていたポルトガル人によって伝えられたのだろうか」という疑問が生まれる人もいるでしょう。

 

学校で倭寇を習う時に、「倭寇=海賊」という理解していると疑問が生まれますが、前期倭寇と後期倭寇の目的や活動が異なっているということを理解しましょう。

 

後期倭寇は密貿易を行っていたので、「貿易商人」だと捉えることができます。

 

また、教科書の多くはヨーロッパの大航海時代について、それはそれとして単体のカテゴリーで記述されている印象を受けますが、この大航海時代は倭寇と鉄砲伝来の間の時期にあたります。

 

このことから交易路が拡大し、貿易が盛んになっていく時代にあってヨーロッパを含めた世界の貿易と密貿易を行う倭寇の活動が結び付いたと解釈できます。

 

そのような時代であったとことを理解すると、後期倭寇とポルトガル人、鉄砲伝来が同時期に教科書に記載されても不思議ではありません。

 

まとめ

✔ 倭寇とは、13世紀~16世紀に主に東アジアの海域で海賊行為を働いていた人たち。

✔ 倭寇は歴史上、前期と後期に分けられる。

✔ 前期倭寇の示す期間は、13~14世紀の室町幕府初期のあたり。

✔ 後期倭寇の示す期間は、15~16世紀の戦国時代、勘合貿易が終わった以後の時期。

✔ 前期倭寇と後期倭寇では活動目的が異なる。

✔ 前期倭寇の目的は、略奪する物は主に食糧。人を略奪していたともいわれている。

✔ 後期倭寇の目的は、海賊行為の他に密貿易を行うことだった。

✔ 前期倭寇は足利義満が行った勘合貿易の始まりによって鎮静化した。

✔ 後期倭寇は豊臣秀吉が発令した海賊取締令、明朝による政策の強化によって鎮静化した。