【弥生時代の稲作&生活道具】わかりやすく解説!!米作りや争い(戦争)など

 

旧石器時代、縄文時代に続く3番目に古い時代が弥生時代です。

 

縄文時代に水稲が行われるようになりましたが、弥生時代ではさらに農耕がやりやすいように道具も変化していきました。

 

弥生という名称は1884年に東京の弥生町の貝塚から土器が見つかり、それにちなんで弥生土器と名付けられました。

 

また、弥生土器が作られた時代を弥生時代と呼ぶようになりまた。

 

今回は弥生時代の人類はどのような生活を営んでいたのか、道具はどんなものがあったのかを解説していきたいと思います。

 

弥生時代とは?

 

 

弥生時代とは、紀元前3世紀頃から紀元後3世紀ごろの期間を指します。

 

人々は縄文時代から引き続き、竪穴式住居や平地式住居に住んでいました。

 

また、縄文時代の終わり頃から渡来人と呼ばれる朝鮮からの移民の影響で文明が発展。渡来人から稲作や金属がもたらされ、生活面でとても便利になりました。

 

しかしその反面、徐々に米の収穫高による貧富の差ができ始め、戦争が始まった時代でもありました。

 

弥生時代の稲作の発展

(弥生時代の稲作“復元” 出典:Wikipedia

①稲作道具と種類

渡来人によって北九州に伝えられた稲作文化により、人々の食生活は食料採集から生産へ変わりました。

 

柱を高くし、床を地面と離した高床式倉庫が造られたのもこの頃です。

 

高床式倉庫は米を湿気と虫から守るだけでなく、洪水を避ける役目もあり、さらに柱にねずみ返しをつけることでねずみの侵入を防いでいました。

 

また、この頃は鍬、鋤を使って耕したり、石包丁で収穫し、脱穀には木臼や竪杵を使っていました。

 

弥生時代初期には湿田と呼ばれる田で稲作を行っていました。

 

しかし、湿田は水はけが悪いため収穫高が少なく、効率が悪いことから、中期から後期にかけて水はけが良く必要な時に田に水を張る乾田へと変わっていきました。

 

また、乾田にするために、灌漑工事や用水路を整備するなど人々はムラを形成し、数十人で協力し合いながら定住。それぞれのムラごとに首長も出現しました。

 

②地域で異なる文化の違い

稲作は日本各地に広まりましたが、一方で定着しなかった地域もあります。

 

北海道では78世紀ごろまで縄文時代のような生活をしており、食料採取の文化だったため続縄文文化と呼ばれています。

 

この続縄文文化では、漁の方法が改良され、骨角器を用いてクジラやアザラシ、魚をとったり、クマなどの大型の獣を狩猟していました。

 

また、北海道で出土されている恵山式土器は縄文土器を継承したものです。

 

沖縄など南西諸島では本土の縄文時代から鎌倉時代のあたり(12世紀ごろ)まで漁労を中心とした貝塚文化でした。

 

独自の文化でしたが、交易はあり、南西諸島産のイモガイやゴホウラなどの貝が九州を中心に北海道でも見つかっています。

 

弥生時代の生活「戦争のはじまり」

(吉野ヶ里遺跡 出典:Wikipedia)

①クニの形成と集落の進化

弥生時代になると、それ以前の時代よりも米の収穫高が増え、それによって貧富の差ができ始め、民衆と支配者に分かれました。

 

また、同時に稲作に必要な水や土地をめぐって戦争が起こるようになりました。

 

そして、強いムラは弱いムラを従え、クニを形成していきました。

 

集落にもその特徴があらわれ、環濠集落が登場します。

 

環濠集落とは外敵から守るために周囲に濠をめぐらし、その中に貯蔵穴や高床式倉庫を作り土塁を設けた集落のことです。

 

他にも見晴らしのいい山頂や丘陵の上に造られた高地性集落も出現しました。

 

これらの集落は、農業を営むには不便な場所ですが、武器として発展し、使われた石器が多く出土されていることからクニどうしで牽制するなど軍事的な役割があったと推測されています。

 

また、武器には石剣、石鏃、鉄鏃、銅剣が使われ、見張りとしてやぐらも造られました。

 

②邪馬台国の卑弥呼

戦争によってクニを形成し、朝鮮との交流があったとして邪馬台国が有名です。

 

この邪馬台国は、中国の陳寿3世紀に編纂した魏志倭人伝に書かれている国で、卑弥呼が王として君臨していました。

 

場所は近畿説と九州説がありますが、定かではありません。

 

邪馬台国に住む人々は倭人と呼ばれ、大人、下戸、生口と呼ばれる身分制度、租賦と呼ばれる税制度もありました。

 

他にも法が整備されていたり、貫頭衣と呼ばれる服を着ていました。

 

卑弥呼はから三角縁神獣鏡や銅鏡百枚、親魏倭王の称号、金印を下賜されていました。

 

弥生時代の生活道具

①磨製石器の登場

弥生時代になると、磨製石器と呼ばれる打製石器を磨いて表面をなめらかにして作った石器を使っていました。

 

 

これは半島系磨製石器と呼ばれています。

 

磨製石器は新石器時代を代表する石器で、日本だけでなく世界各国で使用されていました。

 

磨製石器は大きく4種類に分けられています。

 

磨製石器(主な4種類)

  • 石皿、磨石→調理用
  • 石斧→蛤刃石斧柱状片刃石斧など樹木の伐採、穴を掘ったり、農具として使われていました。
  • 石錐→石や獣の皮に穴を開けるために使われていました。
  • 石棒、石剣→呪術や宝具として使われていました。

 

 

また、磨製石器で農具も作られており、石包丁を使って穂首刈りをしたり、石鎌を使って開墾しました。

 

しかし、鉄器が伝わると石器はほとんど使われなくなりました。

 

これには石器が脆く刃こぼれしやすいのに対し、鉄器は鋳造し直せばまた使えるという利点があったからです。

 

弥生時代は人々が石器から金属器を使うようになるシフトチェンジの時代でもありました。

 

②弥生土器

縄文土器とは違い装飾がなく、薄いのが特徴です。

 

東日本では複雑な模様を持つ亀ケ岡式土器が作られていたのに対して、西日本では簡素な作りの突帯文土器が作られていました。

 

これは、稲作が西日本から伝わって東日本に広がっていたため、地域的な違いがあらわれています。

 

弥生土器は用途に応じて煮炊きに使う、貯蔵の、ものを盛り付ける高坏に分けられ、セットで使われていました。

 

ちなみに、壺は縄文時代には定着していませんでした。これは、弥生時代になると米が貯蔵できるようになったことを表しているのです。

 

③金属器

金属器は水稲技術とほぼ同時に日本に伝わりました。

 

金属器には鉄器青銅器があり、鉄器は武器として使われていましたが、後に磨製石器に代わって農具や工具として使われるようになります。

 

 

青銅器は主に祭具として伝わりました。

  • 銅剣→柄をもって使用
  • 銅矛→槍のように柄をつけて使用
  • 銅戈→打ち込むのに使用

いずれも朝鮮から持ち込まれた時は鋭く、武器的な意味を持っていましたが、次第に巨大化したり先が丸くなるなど鑑賞するために作られました。

 

また、銅鐸も音を鳴らして聞くものとして伝わりましたが、巨大化し、絵を描いたものがあるなど鑑賞用に変化していきました。

 

まとめ

 弥生時代とは、紀元前3世紀頃から紀元後3世紀ごろの期間。

 弥生時代からは稲作が始まり、人々が集団で住むようになった。

 高床式倉庫で米を貯蔵し、環濠で集落を守るようになり、北海道や南西諸島では稲作は定着せず、続縄文文化、貝塚文化が発展していた。

 弥生時代は米や土地、水をめぐって戦争が起きるようになった。

 弥生時代には磨製石器が登場し、これによって農業を営んでいたが、鉄器が普及すると石器はほとんど使われなくなった。

 弥生土器はシンプルな造りで実用的なもの。特に壺は米を貯蔵するのに使われていて、縄文時代にはないものだった。

 弥生時代には鉄器が登場し、初めは武器だったが後に農具や工具として変化していった。

 青銅製の銅鐸や銅剣、銅矛、銅戈も日本で独自の変化を遂げ、鑑賞するために使われるようなった。