日露戦争終結前の19057月に、日本とアメリカ間において、今後のお互いの権益を認め合う為の会談が秘密裏に行われます。

 

これを桂・タフト協定と言います。

 

今回はこの『桂・タフト協定』が行われた背景、内容、その後について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

桂・タフト協定とは?

 

桂・タフト協定とは、日露戦争終結前の1905年(明治38年)7月、当時の総理大臣兼外務大臣の桂太郎と、アメリカの陸軍長官タフトの間で取り決められた協定のことです。

 

この協定を元に、全ての列強が日本の朝鮮支配権を認める事となります。

 

桂・タフト協定が締結された背景

①朝鮮の独立

日露戦争の原因は満州の領土の取り合いの他、朝鮮での動向も要因です。

 

清は度重なる戦争に敗北。国際的な立場を弱めており、清の支配下にあった朝鮮も同様でした。

 

ロシアは清や朝鮮の領土を獲得しようと南下政策を進めており、日本にとっては脅威でした。

 

日本は朝鮮を清の支配下から独立させる事を考えます。大陸進出への足がかりにすると共に、ロシアが攻めて来た時の中立的緩衝国にする狙いがありました。

 

下関条約の第1は、朝鮮独立を清に認めさせる事でした。賠償金等よりも朝鮮の独立が優先だったのです。

 

朝鮮は1897年に大韓帝国と名を変え、高宗国王は皇帝と名乗ります。

 

②日本とロシアの対立

日清戦争後ロシアは朝鮮に介入。朝鮮では親日派と親露派が対立し、親露派が優勢となります。

 

1898年の西・ローデン協定により日本とロシアは大韓帝国の内政に干渉せず、大韓帝国から依頼があった時に事前報告をする事を約束。

 

日本は大韓帝国に経済発展の投資をしていますが、ロシアは妨害しない事を約束します。

 

ロシアは大韓帝国における日本の勢力範囲を認め、日本は満州におけるロシアの勢力範囲を認めます。

 

協定後もロシアは介入を続けます

 

1899年馬山沿岸(対馬近く)に軍艦を派遣し測量を始める馬山浦事件1903年勝岩浦(清と大韓帝国の国境付近)に軍事基地を許可なく作る龍岩浦事件等。

 

独立後も大韓帝国は国を統治出来ず、中立的緩衝国とは程遠いものでした。

 

③アメリカの動向

アメリカとフィリピンは戦争を行い(18991902年米比戦争)アメリカが勝利し、フィリピンを統治します。

 

戦争中にフィリピンの民政長官にタフトが任命されています。

 

 

(ウィリアム・タフト 出典:Wikipedia)

 

 

フィリピンの近くには日本が統治していた台湾があり、アメリカは日清戦争後の日本を脅威に思っていました。

 

日本を警戒し、フィリピンに極東最大の空軍基地を置き、フィリピン人12万人に軍事訓練を施しています。

 

この理由として、米比戦争直後の1899年に、フィリピンを支援しようと日本から支援に向かった布引丸が暴風雨により、沈没する事件が起きていた事が挙げられます(布引丸事件)

 

アメリカは日本に厳重抗議を行いますが、その後も日本への不信感はぬぐえずにいました。

 

④アメリカの思惑

日露戦争はアメリカやイギリスの支援もあり、日本が優勢となります。

 

ロシアもアメリカの講和勧告を受け入れます。

 

ロシアの南下政策にストップをかけたいアメリカにとって、日本の勝利自体は喜ばしい事でしたが、日本がフィリピンにも手を出すのでは?と不安にも思っていました。

 

日露戦争終了間近の1905729日にタフトがフィリピンの視察の帰りに日本に来日。

 

総理大臣兼外務大臣の桂太郎は友好の為に歓迎しますが、タフトが来日したのは、ある約束を取り付ける事でした。

 

 

(桂太郎 出典:Wikipedia)

 

 

突如開かれた会談により、幾つかの約束が秘密裏に合意されます。この時開かれた会談の事を桂・タフト協定と言います。

 

桂・タフト協定の内容

 

話し合われた内容は以下の3つです。

 

①日本はフィリピンに対して野心がない事を表明する。

②極東の平和は日本、アメリカ、イギリスによって守られるべきである。

③アメリカは、日本が大韓帝国の指導的立場になる事が、極東の平和に繋がる事を認める。

 

タフトを日本に送り込んだのは、当時の大統領であるセオドワ・ルーズベルトです。

 

 

(セオドワ・ルーズベルト 出典:Wikipedia)

 

 

彼は近々開かれる和平交渉の斡旋役になる予定であり、日本の対露要求を事前に確認したかったのでした。

 

そしてフィリピンを日本が狙う事がないよう、牽制の意味もありました。

 

日本はフィリピンへの野心はもっておらず、布引丸事件自体も軍や民間の一部の過激派が勝手に進めていたものでした。

 

公的にはアメリカの支持を表明しており、アメリカと話が出来た事は好都合でした。

 

桂太郎は「日露戦争が起きたのは大韓帝国政府が原因である。大韓帝国が今後も放置されると、今回のロシアのように日本を戦争に巻き込むだろう。日本が大韓帝国の保護国になる事が東アジアの平和に貢献出来る」と述べています。

 

タフトもそれに同意。その内容をルーズベルトに電文で伝えています。

 

電文を読んだルーズベルトは731日、「桂とタフト間の会談はあらゆる点において正しいこと、タフトが語ったこと全てを自分が確認したこと」をタフトに伝えます。会談は729日から始まり、ルーズベルトが同意するまではわずか2日です。

 

桂・タフト協定のその後

①協定後の日本の動き

87日にタフトは桂太郎にルーズベルトが協定内容に合意した事を伝えます。

 

翌日、桂太郎はポーツマスで講和の準備をしている小村寿太郎に、一連の会談の内容を説明します。

 

その他、8月12日に日本とイギリスは第2次日英同盟をロンドンで締結しています。

 

 

その時に日本はイギリスのインドにおける特権を認めると共に、イギリスは日本の大韓帝国の保護化を認めます。

 

94日、ポーツマス海軍造船所で日本とロシアの和平交渉が開かれます。

 

ルーズベルト、小村寿太郎、イギリスは、「日本が大韓帝国の指導的立場になる」という共通認識を持っていました。

 

その為、ポーツマス条約はスムーズに締結する事が出来、ロシアは日本が大韓帝国の優越権を持っている事を承認します。

 

日清戦争では朝鮮の独立を認めたものの、その頃の列強は各々戦争をしており、朝鮮に構っている暇がなく、ロシアの介入を許してしまう結果となりました。

 

今回は事前にアメリカやイギリス等の強国と根回しが出来た事もあり、保護化自体はスムーズに進める事が出来ています。

 

賠償金等は得る事は出来ず、日本人の批判は高まる事となりましたが…。

 

その後第二次日韓条約が締結し、大韓帝国の外交権は日本が手に入れ、1910年には韓国併合が行われる事となります。

 

 

②協定の秘密性

桂・タフト協定は秘密裏に行われた会談でした。

 

秘密覚書ということもあり、協定が結ばれた当時協定内容は世間に公表されていません。

 

同盟を組んでいたイギリスにもこの協定の事は伝えていませんでした。

 

世間が知るのは1924年です。大韓帝国が日本に併合されてから10年以上が経過してからでした。

 

まとめ

 桂・タフト協定とは、桂太郎とタフトにより秘密裏に取り決められた協定のこと。

 ロシアは朝鮮(大韓帝国)に何度も介入し、日本は危機感を持っていた。

 アメリカは日本が大韓帝国の保護化を進める事を認めた。そして日本はフィリピンへの野心がない事認めた。

 ポーツマス条約では大韓帝国の保護化が全面的に認められた。

 

余談 現在における批判について・・・

 

日本とアメリカが、大胆帝国とフィリピンという自分達の領土ではない国の事を2か国だけで協議を行い、勝手にそれぞれの権益を認めたという事が、現在でも批判される事があります。

 

特に韓国ではこの協定をもって、アメリカの事を信じてはいけない国だと批判している人もいます。

 

2008年には韓国の議員が、桂・タフト協定の破棄と謝罪を、日本とアメリカに求める決議案を国会に提出しています。

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