明治時代に入ると国民が政治をするべきと主張する運動である自由民権運動が活発になっていきます。

 

その代表的である集団自由党では自由民権運動の中でいろいろな事件を起こしていきます。福島事件もその一つでした。

 

今回は、そんな自由民権運動のさなかで起こった大事件『福島事件』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

福島事件とは

 

 

福島事件とは、1882年(明治15年)に福島県において農民が国内で起こした最初の大規模な衝突事件のことです。

 

この事件は自由党員の人もいたため国レベルの大事になりました。

 

福島事件までのいきさつ

(自由民権運動)

①自由民権運動の高まり

明治時代に入ると国民たちは薩摩藩と長州藩の人たちだけが政治をしている、いわゆる藩閥政治に対してすごく不満を持っていました。

 

藩閥政治は国民の意見を全く聞かず、自分たちのいいように政治をやってさらには汚職まで起きる始末でした。

 

そんなとき明治六年の政変で政府をやめて故郷の土佐に戻ったある人がやってきます。

 

 

その人がのちに自由党をつくる板垣退助でした。

 

この人がのちに福島事件に加担する自由党をつくるのです。

 

板垣退助は政府に対して民撰議院設立の建白書というものを提出します。

 

民撰議院設立の建白書は簡単にいったら『国民が選んだ議員が政治をしましょうね』という意味で、この思想がのちに自由民権運動の原動力となるのです。

 

②自由党の結成といざこざ

 

 

板垣退助は政府から『10年以内に議会を作るよ!』という国会開設の詔(勅諭)が発表されたのを受けて自由党という党を結成します。

 

 

自由党のポリシーはフランスみたいに国民が主権を持っていこう!という考え方で結構過激でした。

 

一方で同じときに結成された大隈重信が作った立憲改進党は立憲君主制でイギリスみたいな穏やかな政治をしていきましょう。という考え方でした。

 

自由党は最初の頃はうまくいっていたのですが年が経つにつれて内部でのいざこざや集会条例による政府からの弾圧が加わり徐々にいざこざが起きるようになってしまいます。

 

福島事件の発生

①農民に厳しかった福島県『三島 通庸』

明治時代の頃の県のトップは今のように県民が投票して決めるのではなく国が指名していかせていました。

 

そのためもし性格が悪い人が県のトップになったら県民がその人を変えることができませんでした。そんなひどい状態だったのが福島県。

 

福島事件が起きる時の福島県のトップは三島通庸(みしまみちつね)という人。

 

(三島通庸の肖像写真 出典:Wikipedia

 

 

この人はとにかく道路工事をしてインフラを整えようと考えていました。

 

その費用を負担したのはもちろんその県に住んでいる人たちです。

 

当時福島県は道路工事をするために地方税はこれまで2.5倍にして、さらに強制的に働かなければいけない厳しい状態でした。

 

もちろん県民たちは役人に抗議しますがもちろんこの当時県民が役人に訴えることができる権利はありませんので抗議は聞かれることはありませんでした。

 

②抗議運動がエスカレート

抗議が聞かれられないのであれば抗議運動はどんどんエスカレートしていきます。

 

さらに河野広中という自由党員も参加して、この抗議運動はいつのまにか大規模なものになっていました。

 

さらにとある人が福島県の役人に襲いかかり、ついに流血の事態にまでになりもはや収拾がつかない状態になってしまいました。

 

事件の鎮圧

福島で起きた大事件はすぐさま政府に伝わります。

 

政府は自由党が邪魔だと思っていたので、自由党員が参加しているこの事件を利用して自由党員をどんどん逮捕していきます。

 

最終的には河野広中を始め、福島事件に関わった自由党員が逮捕されることになりました。

 

福島事件の影響

(茨城県にある加波山事件志士の墓 出典:Wikipedia

①加波山事件の発生

福島事件を受けて自由党員の過激派は三島通庸を暗殺しようと企みます。

 

しかし、暗殺に使われるはずであった爆弾が誤爆して計画がバレてしまうとすぐ近くにあった今の茨城県にある加波山という山に立てこもりました。

 

そこで自由党員は『政府転覆』を掲げて政府を潰すために警察や商人を襲いました。

 

しかし、最終的には首謀者始め300人以上の自由党員が逮捕され、7人に死刑判決が下りました。

 

 

②自由党の崩壊

そもそも福島事件や加波山事件が起きた時は板垣退助は留学しており、日本にはいませんでした。

 

しかし、自由党は福島県や加波山事件などによる事件を起こしてただで、さえ政府から弾圧を受けていたのにさらに弾圧を受けるようになり、さらに過激な行動をしてまた事件を起こすまさに悪循環を繰り返していました。

 

さらにこの頃立憲改進党とも対立して自由党の暴走は止まることはありませんでした。

 

板垣退助が帰国した時こんな状態じゃ自由党に未来はないと感じていっそのこと党を潰すか、10万円(今の2億円)を集めて党をなんとか立て直すかを考えます。

 

一応資金調達を始めますが結局お金は集まらず、1884年ついに自由党は解散してしまいました。

 

しかし、過激派の暴走は終わらずさらにここから最大の大事件とも言われている秩父事件が起こることになっていくのです。

 

 

三島通庸のその後

福島事件後、三島通庸は福島県令ではなく栃木県令となることになりました。

 

加波山事件が起こって暗殺されかけたのはこの時です。

 

三島は福島事件に懲りることなく栃木でも福島と同じようにインフラ整備を行いました。

 

特に栃木北部の那須という場所には力を入れており、自分の長男をここに建てた会社の社長にさせました。

 

さらに三島は那須の塩原にあった別荘を皇太子(のちの大正天皇)に献上して塩原御用邸となりました。

 

晩年には警視総監に就任して警察官が身につける武術を始めて導入して今でもやっている警視庁武術を発展させるなどの功績をあげています。

 

まとめ

・福島事件は地方税の増税や工事に不満を持った福島県民が役人に抗議して起こった事件のこと。

・この事件には板垣退助が作った自由党員も参加していた。

・この事件の後自由党員は三島通庸を暗殺しようとした加波山事件を起こした。

・福島事件と加波山事件の影響で自由党は悪循環に陥って挙げ句の果てには党を解散することになった。

・事件が起こった原因の三島通庸は那須塩原の別荘を皇太子に献上したり、警視庁武術を発展させるなどの功績もある。

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