江戸時代は比較的寒冷な時代であったと言われており、たびたび冷害などから凶作となり飢饉につながることがありました。
そのうち特に大規模な飢饉となったのは、寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉であり、江戸四大飢饉と呼ばれています。
今回は、この中の一つ『天保の大飢饉』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
天保の大飢饉とは?
天保の大飢饉とは、江戸後期におきた大雨による洪水や冷害による大凶作を原因となった全国的な飢饉のことです。
被害は米作に偏った政策を取っていた陸奥国や出羽国でとくに大きく、また、飢饉からの百姓一揆や打ちこわしが激増しました。
江戸では徳川幕府がお救い小屋を建てて窮民を収容したり、寛政の改革による備蓄米や銭を与えるなど、約50年前におきた天明の大飢饉の経験が生かされた部分がありました。
大飢饉前の状況
江戸四大飢饉の中でも最大規模とされる天明の大飢饉は1782年に始まります。
この飢饉の途中で1787年に田沼意次が失脚すると、松平定信による寛政の改革のさまざまな政策によって飢饉は落ち着きを見せ始めます。
松平定信が老中を辞職すると11代将軍徳川家斉が幕政の中心となり、のちに家慶に将軍職を譲って以降も大御所として実権を握り続けます。
この文政から天保の改革までの期間を大御所時代、または文化文政時代といいます。
家斉は寛政時代の者を遠ざけ、田沼派であった水野忠成に命じると、賄賂政治が横行し財政は行き詰まります。
(水野忠成 出典:Wikipedia)
窮した幕府は品位を落とした文政小判で利益を得るものの、貨幣の質の低下により物価が上昇し幕政に問題点を残しました。
関東の農村では、貨幣経済の浸透により交通や流通の要所が市街地化するなど、商人や地主が力をつける一方で生活の維持が困難になる農民が出てきます。
幕府は、1805年に関東取締出役や1827年には近隣の村の共同体として寄場組合をつくり治安維持を図ります。
天保の大飢饉の発生とその影響
悪天候による凶作が広がり大規模な飢饉となりますが、これが打ちこわしや百姓一揆に発展していきます。
また、天明の飢饉の経験から対策を取っていたことから、被害が最小限にとどまった藩もありました。
①飢饉の状況
天保期に入ると毎年のように凶作が続いていましたが、1833年は雨が多く大雨を原因とする洪水や冷害もあわせておきたことで大凶作となります。
とくに陸奥国や出羽国の被害が大きく、100万石を超える石高を有する仙台藩では、米作の割合が極端に高かったため甚大な被害となりました。
なお、この時代は商品作物の商業化により農村での貧富の差が著しくなり、困窮した百姓は餓死していきます。
幕府は、救済のために江戸でお救い小屋を21ヶ所を設置すると、70万人以上の人を救済することとなりました。
これにより、江戸に限っては一揆や打ちこわしを未然に防ぐことにつながります。
しかし、米の価格が急激に上昇すると各地で年間で100件を超える百姓一揆や打ちこわしが続きます。
1836年には幕府直轄の甲斐国で一国規模の百姓一揆に発展した天保騒動が起こりました。
②大塩平八郎の乱
大坂でも飢饉の影響は大きく餓死者が増えていきますが、裕福な商人は米を買い占めて暴利を得ます。
ところが、大坂町奉行所は救済に動くどころか、幕府の指示で大坂の米を大量に江戸に廻送していました。
大坂町奉行所の元与力であり陽明学者でもあった大塩平八郎は、自身の蔵書を売って窮民を救済するなど努めていましたが、大坂のようすに怒り1837年についに武装蜂起します。
(大塩平八郎 出典:Wikipedia)
幕府の転換や窮民の救済を求め、私塾洗心洞の門人や民衆を動員することとなりました。
大塩側は大砲を用いたり富商宅など市中に火を放ちますが、事前に大坂奉行所に動きが漏れていたこともあり、半日で鎮圧されることになりました。
しかし、直轄地で幕府の元役人が反乱をおこしたことは、幕府や諸藩にとって驚くべき事件となりました。
③生田万の乱
各地で飢饉で多数の餓死者が出ていながら、豪商や代官役人は手を結んで米の買い占めを行ったことで米価は急騰し庶民の生活を圧迫していました。
そんな中、平田篤胤に学んだ国学者の生田万(いくたよろず)は、1826年に越後国柏崎へ移り塾を開きつつ、貧民に食糧を与えるなどして人望を集めます。
(平田篤胤 出典:Wikipedia)
1837年3月におきた大塩の乱に刺激を受けて、大塩の門弟と称して同年5月に同志とともに越後国柏崎で庄屋の屋敷を襲撃して奪った金品を村民に配り、同志を増やしていきます。
さらに陣屋を襲撃するも長岡藩の兵に押さえられて自害します。
そのほか、摂津国能勢でも山田屋大助を指導者とした能勢騒動も、米の買い占め、米価急騰、民衆の困窮の流れから、大塩に刺激を受けての一揆でした。
④天明の大飢饉の経験による対策
津藩でも大雨と凶作は例外ではなく、水害による飢饉に見舞われました。
しかし、約50年前の天明の大飢饉の経験から、藩主藤堂高猷は前藩主高兌時代から囲い米と呼ばれる非常用の米を備蓄しており、人々に分配しました。
さらに、津藩士の平松楽斎は山野で採れるもののうち食べられるものを「食草便覧」にまとめます。
茹でるもの、水にさらすものなど食べ方も記された野草は60種類にものぼったということです。
他には、国学者の足代(あじろ)弘訓(ひろのり)が糠に小麦とそば粉を混ぜる糠団子を配るなど、津藩ではさまざまな努力や工夫がされました。
その結果、津藩では餓死者をほとんど出すことはありませんでした。
天保の大飢饉のその後
幕府は凶作や飢饉、大塩の乱などのほか、財政難や外国の接近など幕政を揺るがす事件が相次いでいました。
1841年に徳川家慶が死去すると、水野忠邦を中心に改革をすすめます。
(水野忠邦 出典:Wikipedia)
また、藩政の危機に直面する諸藩は藩政改革により、藩権力の強化を目指します。
①天保の改革
改革の中心となったのは厳格な倹約令でした。
嗜好品や華美な衣服は取り締まられ、寄席を減らしたり歌舞伎三座を移転させるなど徹底します。
また、風俗に悪影響であるとして、人情本作家の為永春水や合巻作者の柳亭種彦が処罰されました。
一方で、江戸の人口を減らし農村の人口を増やすために、百姓が江戸に出てくることを禁じたり農村から江戸に出てきた者を帰郷を命じることなどが定められた人返しの法を出します。
さらに、流通の独占による物価上昇を防ぐために株仲間の解散を命じました。
飢饉への対策を講じる政策をとりましたが、1843年に豊かで年貢の多い大阪や江戸周辺を直轄地とする上知令への反発などもあって水野忠邦は失脚し、幕府権力の衰えを感じさせることになりました。
②雄藩のおこり
凶作や飢饉が続くことで諸藩の藩政も危うくなっており、天保の大飢饉前後に藩政改革をすすめる藩が増えていきます。
鹿児島(薩摩)藩では、調所広郷が借金を事実上棚上げしたほか奄美特産の黒砂糖の専売制を強化することで莫大な利益を産みました。
萩(長州)藩では、村田清風が登用されると借金を棚上げのような方法で整理し、越荷方という役所を設けて資金の貸付や越荷の委託販売をするなど利益をあげて藩財政の柱としました。
その他、佐賀(肥前)藩、高知(土佐)藩、福井(越前)藩などでも、独自の方法で利益を得て藩政を強化しました。
まとめ
✔ 天保の大飢饉とは、江戸後期におきた大雨による洪水や冷害による大凶作を原因となった全国的な飢饉のこと。
✔ 大規模な飢饉であるだけでなく、大塩の乱を始めとする一揆や打ちこわしが全国に広がっていったことは天保の飢饉の特徴となった。
✔ 約50年前に天明の大飢饉がおこっていたことから、幕府や一部の藩ではその経験を生かした備蓄米などの対策を講じることができた。