「ヤルタからマルタへ」のフレーズで知られるように、ヤルタ会談とマルタ会談は冷戦(冷たい戦争)の始まりと終わりを示すものとしてよく対比されます。

 

一文字違いのため混同されることが多い両者ですが、内容は全く異なります。

 

今回は、ヤルタ会談とマルタ会談の違いについてわかりやすく解説していきます。

 

ヤルタ会談とマルタ会談の違い

 

 

ヤルタ会談とは、大事世界大戦中の194524日から11日にかけて、ソビエト連邦のヤルタ近郊で開催された、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦の三国間の首脳会談です。

 

一方、マルタ会談は1989122日から3日にかけて、地中海に浮かぶマルタ共和国(正確には船上)で行われたアメリカ合衆国とソビエト連邦の首脳会談です。

 

ヤルタは黒海に突き出したクリミア半島にある都市なので、名前は似ていてもマルタとは場所がまったく異なります。

 

覚え方は時代順に「ヤ・マ(=山)」にこじつければ良いでしょう。まさに「山勘」といったところです。

 

ヤルタ会談とマルタ会談が開催された背景・目的

(ヤルタ会談 出典:Wikipedia

 

 

ヤルタ会談は、19452月という開催時期が示すように、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われたものです。

 

出席者はアメリカ合衆国がフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスがチャーチル首相、ソビエト連邦がスターリン書記長です。

 

ヤルタ会談は第二次世界大戦の終結に大きな役割を果たした反面、戦後の長きにわたって続く米ソ両陣営の東西冷戦(冷たい戦争)の発端にもなりました。

 

その冷戦の終結宣言が出されたのが、1989年末のマルタ会談です。

 

 

(マルタ会談 出典:Wikipedia

 

 

アメリカ合衆国のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ大統領(父親のほう)とソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が共同声明を発表しました。

 

これによって、約44年間続いた東西冷戦は終わりの時を迎えたのです。

 

 

 

ヤルタ会談・マルタ会談の内容詳細

ドイツの位置

(分割占領されたドイツ 出典:Wikipedia

 ①ヤタ会談の決定事項

ヤルタ会談で結ばれたヤルタ協定では、アメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦によるドイツの分割統治や、東ヨーロッパ諸国の戦後処理などが決められました。

 

また、第二次世界大戦の勃発を防げなかった国際連盟に代わる平和維持機関として設立が模索されていた国際連合において、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国)の5か国に拒否権を持たせることが提案されたのもヤルタ会談でした。

 

②日本への影響

日本史に関連の深いところでは、アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定が結ばれました。

 

これにより、1941年に締結された日ソ中立条約を破棄し・・・

 ドイツ打倒後3か月以内にソ連が対日参戦すること

 朝鮮半島と台湾を日本から独立させること

 南樺太および千島列島をソ連の領土とすること

などが密約されたのです。

 

千島列島に関しては、ソ連(現在のロシア)と日本の間に解釈の違いがあり、今も解決されずに北方領土問題として継続しています。

 

③マルタ会談の概要

一方、マルタ会談は、共産主義政権が次々に倒された東欧革命や、ドイツのベルリンの壁崩壊を受けて、東西冷戦の終結を追認するような形で開催されました。

 

これにより1990年の東西ドイツ統一、その翌年のソビエト連邦解体など、重大事件が雪崩のごとく起こることになりました。

 

なお、込み入った知識ですが、アメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相は、1945年の130日から23日、すなわちヤルタ会談の直前にもマルタで会談を行っています。

 

よって厳密には、マルタ会談は「1945年のマルタ会談」「1989年のマルタ会談」の二種類が存在するのです。

 

しかも、その間にヤルタ会談の開催時期が挟まれているので、ややこしいことこの上ありません。

 

⑤日本史の知識とは

ただ、「1945年のマルタ会談」は、対ドイツ戦の最後の仕上げをどうするかについて最終確認を行っただけのものであり、歴史上重要なものとは言えません。

 

世界史の入試でもまず問われることのないマイナーな出来事です。

 

ましてや日本史において、この会談について問われることはあり得ないと言い切って差し支えないでしょう。

 

何よりも、その内容が日本とは無関係なものなので、日本史の知識としては必要ないものです。

 

単に「マルタ会談」と言えば、「1989年のマルタ会談」を指すと考えて問題ありません。

 

ヤルタ会談とマルタ会談のその後

(冷戦時に行われた米核実験の様子 Wikipedia)

①ヤルタ会談の影響

ヤルタ会談では、第二次世界大戦後のポーランドとバルカン半島の扱いをめぐってイギリスとソビエト連邦の対立が表面化しました。

 

このことが戦後の東西冷戦の原因の一つになりました。

 

一方、アメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領はこの時すでに病魔に侵されており、これが最後の国際会議の出席となりました。

 

5月にルーズベルト大統領が死去すると、その後を継いだのが副大統領から昇格したトルーマンです。

 

日本に二発の原爆を投下したのは、このトルーマン大統領です。

 

②米ソ間の駆け引き

広島への原爆投下は194586日、ソ連の対日参戦が194588日、長崎への原爆投下は194589日です。

 

アメリカが日本への原爆投下を強行した理由は、ソ連をけん制して戦後統治の主導権を握るためだったという説が有力ですが、そもそもソ連の対日参戦はヤルタ会談の秘密協定においてアメリカとの合意がなされていたはずです。

 

途中で方針が変更されたのか、大統領の交替が影響しているのかといった推測は成り立ちますが、秘密協定という性格上真相を知ることは今となってはもはや不可能でしょう。

 

ただ、個人的な見解を加えれば、少なくともソ連の対日参戦の後に、長崎に二発目の原爆を投下する必要はなかったのではないでしょうか。

 

もちろん、広島への原爆投下は仕方がなかった、などと言うつもりは毛頭ありません。

 

アメリカにこんな仕打ちを受けながら戦後は西側陣営に組み入れられ、忠実な同盟国として尽くしている姿は、他国民には理解しがたいのではないかと思われます。

 

④マルタ会談の日本への影響

日本とアメリカの蜜月な関係は、マルタ会談で冷戦が終結してからも変わらず、そのまま現代に至っています。

 

マルタ会談の日本への影響を考えるならば、むしろ旧東側陣営諸国との貿易が盛んに出来るようになったことが大きいのではないでしょうか。

 

特に資源大国であり、人口も多いロシアとの貿易は、日本の輸入・輸出において存在感を増しつつあります。

 

それだけに、北方領土問題の早期解決が望まれるところです。

 

まとめ

 ヤルタ会談は、第二次世界大戦後の対応を議題とし、1945年2月に米・英・ソの首脳が出席して開催された。

 ヤルタ会談は第二次世界大戦の終結に貢献したが、戦後の東西冷戦の発端にもなった。

 同時に結ばれたヤルタ協定では、戦後処理に加え、米・英・仏・ソ・中の5か国に拒否権を認めることが決められた。

 米ソ間ではヤルタ秘密協定も結ばれ、ソ連の対日参戦や、朝鮮半島・台湾・南樺太・千島列島を日本から切り離すことが密約された。

 米ソ両首脳が出席した1989年末のマルタ会談で冷戦の終結宣言が出され、対立に終止符が打たれた。

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