10世紀ごろから各地で成長した豪族や有力農民が武装したり、畿内付近で成長した豪族が朝廷や貴族に仕えるようになりました。

 

彼らは各地に武士団をつくると、良馬を産する東国で成長したのが将門でした。

 

その将門が下総から勢力を拡大し、大きな反乱に発展したのが「平将門の乱」です。

 

今回は、この『平将門の乱』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

平将門の乱とは?

(平将門 出典:Wikipedia)

 

 

平将門の乱とは、下総から勢力を広げる平将門と常陸で国司と対立する藤原玄明(はるあき)が手を結び、939年に反乱に発展した争いのことです。

 

豪族などが各地で成長した武士団のうち、桓武天皇の曽孫の高望王から平姓を与えられたのが桓武平氏でした。

 

平将門は下総を根拠に私闘を繰り返しながら、常陸の国司に反抗する豪族の藤原玄明と手を結んで乱が拡大すると、平将門の乱となります。

 

のちに将門の乱は押さえられるものの、同時期におこった藤原純友の乱とあいまって、朝廷の軍事力の低下と地方武士の実力を知らしめることになりました。

 

平将門の乱が起こった背景

(騎馬武者 出典:Wikipedia)

①武士団の形成

10世紀になると、地方各地の豪族や有力農民が勢力を伸ばすために武装し、弓矢をもち馬に乗って戦うようになります。

 

豪族らは兵(つわもの)と呼ばれ、家の子といわれる一族や郎党などを率いて、ときには国司に反抗するなど戦いを繰り返します。

 

また、畿内付近では、成長した豪族が朝廷の武官となったり、貴族に仕えることもでてきました。

 

この豪族らも、兵や武士と呼ばれ、宮中の警備や貴族の身辺、そのほか市中の警護を任されることになります。

 

これらの兵や武士と呼ばれる者たちは、一族の結びつきを中心とした組織として連合体をつくります。

 

これが武士団と呼ばれるものでした。

 

この頃は、とくに関東地方での武士団の成長に勢いがあったとされています。

 

②桓武平氏の台頭と内紛

その中で早くから関東に基盤をつくっていたのが平氏でした。

 

平氏は桓武天皇の曽孫である高望王から平姓を与えられたことにより桓武平氏となります。

 

高望王は葛原親王の王子でしたが、勅命により臣籍降下し平高望を名乗ります。

 

上総介に任官した高望は、関東各地の勢力と関係を深めて勢力を拡大し、桓武平氏の基盤を固めていきました。

 

高望の子の平良将は下総国佐倉を所領としていました。

 

しかし、若くして亡くなり良将の子である将門が京での任務から戻ったときには、同じく高望の子である国香(くにか)などに所領の多くを奪われてしまっていました。

 

平将門の乱の経過

 

当初は一族の私闘であった内紛が徐々に拡大し、将門が関東の大半を制圧すると新皇(しんのう)と称するようになり、朝廷が征東大将軍を派遣するまでに及びます。

 

①一族の私闘

935年、源扶(たすく)、源隆、源繁の三兄弟は常陸国で将門を襲い合戦となります。

 

将門は源三兄弟を討ち取り、さらに伯父の平国香も討ち取ってしまいましたが、この時点では、国香の子である貞盛は将門との和睦を望んでいたとされます。

 

一方で三人の息子を討たれた源護は、高望の直系である平良正に訴えると良正は兵を率いて将門の本拠である豊田に向かいます。

 

将門はこれに迎え撃つと、鬼怒川付近での合戦となり、将門が大勝する結果となりました。

 

良正は兄の平良兼に協力を求めると、良兼は貞盛を味方に引き入れて、935年に大軍を率いて将門の本拠豊田を包囲します。

 

しかし、将門はこれを打ち破り、逆に下野国で連合軍を包囲しますが、良兼らは一命を取り留めました。

 

こののち、朝廷から召喚され検非違使(けびいし)に尋問を受けることもありましたが、小競り合いは続きます。939年に良兼の勢力は衰えると、939年に病いに倒れ亡くなりました。

 

②私闘から乱へ

9392月、武蔵国へ赴任した興世王(おきよおう)経基は郡司との紛争に陥りますが、将門がお互いの和解に導きました。

 

経基は京へ戻り紛争のことで訴えるも、逆に経基は罰せられることになり、将門の評価が上げることになります。

 

武蔵権守となった興世王は、受領と不和になると将門を頼るようになります。

 

また、常陸国の藤原玄明も将門を頼り、租税を一切納めていない玄明を匿ったのちに玄明の追補撤回を求めます。

 

これに対して、常陸国府が武装して要求を拒否し合戦となると、兵力の乏しい将門側が圧勝し国府を占領してしまいます。

 

これにより、坂東の平氏一族の私闘から朝廷への反乱へと発展するに至りました。

 

③新皇を名乗る

常陸の国印を奪った将門は、さらに下野(しもつけ)上野(こうずけ)の国府を攻め落とし、東国の大半を征服しました。

 

さらに将門は、独自に除目(じもく)を行い関東諸国の国司を任命すると、巫女のがあったとして新皇を称するに至ります。

 

将門は関東全域にまで勢力を広げると、上総の興世王を始め、下野、上野、常陸、安房、相模、伊豆、下総の国司を任命します。

 

④将門追討

将門の乱は京にも伝わり、9401月には将門謀反の密告をした源経基が従五位以下に叙され参議藤原忠文が征東大将軍に任じられると、追討軍を率いて京を出発します。

 

そのころ平貞盛は身を隠していましたが、下野国押領使藤原秀郷とあわせ4000の兵を集めます。

 

将門は1000人にも満たない兵しかおりませんでしたが、2月1日に出陣し迎え討ちます。

 

貞盛と秀郷は将門軍先鋒の藤原玄茂を破り追撃すると将門は退却します。

 

さらに兵を集めた貞盛と秀郷の軍は、213日に将門の本拠に攻め込み火を放ちます。

 

慌てて兵を集めた将門は僅か400の兵で陣を敷きました。貞盛側にはさらに藤原為憲が加わり、将門軍との合戦が始まります。

 

春一番の南風が吹く中で、将門は優位に野戦を展開し貞盛らの軍を攻め込み、逆に寒の戻りとなり風が北風に変わると、貞盛らの軍は勢いを増し反撃。

 

将門自ら奮闘しますが、額に矢が的中し将門は討ち死にします。

 

こうして、将門の死によって関東独立国は僅か2ヶ月で滅びます。

 

将門の弟たちのほか、興世王や藤原玄明、藤原玄茂らは誅殺され乱は幕を閉じました。

 

⑤藤原純友の乱

同じころ、瀬戸内海で藤原純友が海賊を率いて反乱をおこし、伊予の国府を奪い、さらに勢力を広げていきました。

 

これは平将門の乱とあわせて、朝廷に衝撃を与えることになります。

 

この2つの乱をあわせて天慶(てんぎょう)の乱と呼ばれます

 

瀬戸内海では海賊による被害が続いており、藤原純友は海賊の討伐に当たっていたはずが、936年ごろには伊予国日振島を根拠とする海賊の頭目になっていたとされています。

 

939年には純友の部下である藤原文元らに摂津国須岐駅を襲撃させると、朝廷は東国の平将門の乱と共謀かと恐れます。

 

940年、朝廷は山陽道追補使に小野好古(よしふる)、その次官に源経基を任じますが、東国に力を集中させるため純友には懐柔するにとどまります。

 

将門の乱が決着すると朝廷は積極的に純友討伐にのりだし、6月に藤原文元に追討令を出します。

 

対する純友は8月に400艘の船で伊予国、讃岐国を襲撃すると、10月には太宰府と追捕使を破り、さらに中国四国地方で勢力を広げました。

 

ところが、翌9412月に純友軍幹部の寝返りにより純友軍は西へ逃れます。

 

これにより九州に逃れた純友軍は、朝廷の官軍である小野好古らとの激しい戦いの末、捕らえられ獄中で死を迎えました。

 

平将門の乱のその後

(平将門の首塚 出典:Wikipedia

 

 

平将門の乱と藤原純友の乱から、朝廷は軍事力の不足と地方武士の実力を思い知ることになり、朝廷や貴族は積極的に武士を侍として仕えさせるようになりました。

 

また、地方の武士を国司の元に組織するとともに、諸国で盗賊や反乱者を追捕する追捕使や内乱などの際に兵士を統率する押領使などに任命し、武士を治安の維持に活躍の場を与えることが増えました。

 

まとめ

 平将門の乱とは、下総から勢力を広げる平将門と常陸で国司と対立する藤原玄明が手を結び、939年に反乱に発展した争いのこと。

 地方各地の豪族や有力農民が勢力を伸ばし、一族の結びつきを中心とした組織として武士団を形成し、さらに成長していったことが乱の下地となった。

 平将門の乱は同時期におこった藤原純友の乱とあいまって、朝廷の軍事力の低下と地方武士の実力を知らしめることになった。




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