幕末の動乱期。
日本の伝統的な権威である天皇を敬い、外国を打ち払おうという尊王攘夷の考えを持った志士たちが多く存在しました。
今回は、そんな尊王攘夷の考えを持った志士たちが弾圧された『寺田屋事件(てらだやじけん)』についてわかりやすく解説していきます。
目次
寺田屋事件とは?
(現在の寺田屋 出典:Wikipedia)
寺田屋事件とは、1862年に京都伏見の船宿寺田屋にて起きた、島津久光が尊王攘夷派の志士たちを鎮圧した事件のことです。
この事件により、薩摩藩の攘夷志士たちは京都から追放され、島津久光が幕政改革を実行しました。
また、同じ寺田屋で起こった事件として坂本龍馬が伏見奉行所に襲撃された事件も、寺田屋事件と呼ばれているようです。
(坂本龍馬 出典:Wikipedia)
ドラマなどで取り上げられることも多いこちらの事件の概要としては、両手に大きな怪我を負いながらも、高杉晋作から貰ったとされる拳銃などを使用し、かろうじて脱出に成功したと言われています。
そして、入浴中に事態を察知し龍馬に恋人であったおりょうが伝えたとされている話は、有名な話であり耳にしたことがあるのではないでしょうか。
しかしこの出来事は、歴史的根拠が少なく、信ぴょう性が低いためか、公に寺田屋事件と呼ぶには至らないようです。
『日本歴史大事典』にも、寺田屋事件とは、「1862年(文久2)4月23日、京都伏見の船宿寺田屋で、尊攘激派志士が鎮圧された事件」とあり、坂本龍馬についての記述はありません。
ここでは、先に紹介した島津久光が鎮圧した事件について解説していきます。
寺田屋事件が起こった原因
(薩摩藩最後の藩主「島津久光」 出典:Wikipedia)
①島津久光の上洛
1862年3月、薩摩藩主の息子島津忠義の後見役として実権を握った島津久光は、約1000人の家臣を率いて京都へ向かいました。
島津久光の目的は、急死した前藩主島津斉彬の遺志を受け継ぎ、朝廷と幕府・大名が協力して国内の政治を安定させようという公武合体や、幕府の改革を実現することでした。
この上洛を、同じ薩摩藩の尊王攘夷派である有馬新七らに、ある計画の好機と利用されることになります。
②尊王攘夷派の計画
1862年4月、薩摩藩士である有馬新七、田中謙助、大山巌、西郷従道、三島通庸らと、浪士の清川八郎、田中河内介、真木和泉ら尊王攘夷派の志士たちが京都の寺田屋に集まり、幕府側に立つ関白九条尚忠らを襲撃する計画を企てていました。
この計画を実行する好機として、島津久光の上洛に目をつけたのでした。
③尊王攘夷派への説得
有馬らの計画を知り不快に思っていた島津久光は、尊王攘夷志士たちの不穏な行動を懸念していた朝廷からの命令を受け、彼らの会合中を狙い、薩摩藩士奈良繁、大山綱良ら9名を派遣し、説得を試みました。
しかし、有馬ら尊王攘夷派志士たちは説得に応じなかったため、両者の間に乱闘が起きてしまったのです。
寺田屋事件の勃発と結果
①乱闘事件勃発
島津久光が派遣した薩摩藩士たちは武術に長けた者が多く、説得に応じない場合は、討ち取ってもよいとの命令を受けていました。
話し合いにて場を収めようとした大山綱吉らは、軽率な行動はせず、薩摩藩邸に戻るようにと再三伝えました。
しかし、説得に応じなかった有馬ら尊王攘夷派志士たちの間には、しばらく問答が続きましたが、話し合いでは埒が明かないと遂に乱闘が勃発してしまいました。
島津久光が派遣した薩摩藩士たちは武術に長けた者が多く、説得に応じない場合は、討ち取ってもよいとの命令を受けていました。
問答のさなか、鎮撫使のひとりである道島五郎兵衛が「君命ごわす」と大声を上げ、有馬に斬りかかったことが乱闘に発展するきっかけになりました。
武術に長けた鎮撫使たちに次々と斬られていった尊王攘夷派の志士たち。目前には、酷い光景が広がっていたことでしょう。
計画の首謀者とも言える有馬新七は、強敵道島五郎兵衛と相対し、道島を壁に押し付けた後自らその上に覆いかぶさり、志士の橋口吉之丞に「おいごと突けー!おいごと刺せー!」と大声で叫びました。
(有馬新七の肖像画 出典:Wikipedia)
自分の身を挺してでも、相対する敵を討とうとした覚悟の表れと言えるでしょう。
呼ばれた橋口は、ためらったことでしょう。しかし、覚悟を決めた有馬の意志を受け取り、有馬もろとも道島を持っていた刀で討ち取りました。
1862年4月、この乱闘により、有馬ら6名が斬られ、田中謙助ら2名が重症を負って捕らえられ、説得を試みた道島五郎兵衛が死亡しました。
②尊王攘夷派の敗北
乱闘の結果、重症を負って捕らえられた田中謙助ら2名は切腹を命じられ、この後日1名が自害しました。
また、乱闘勃発時、寺田屋2階にいた西郷従道など大勢の尊王攘夷派志士たちは、大山綱良による必死の説得により降参し、鹿児島へ送られて謹慎を命じられました。
有馬を中心に企てられた計画に参加した多くの尊王攘夷派の志士たちは京都を追放され、寺田屋事件は終結しました。
寺田屋事件のその後
①島津久光の幕政改革
薩摩藩氏同士が斬り合う事件となった寺田屋事件を迅速に終結した島津久光は、朝廷から大きな信頼を得ることになりました。
1862年初頭から、京都での勢力を強めた薩摩・長洲・土佐の三藩の尊王攘夷派は、朝廷を動かして幕府を攘夷の立場に立たせようとしました。
この結果、攘夷貫徹のための幕政改革の一環として、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶喜を大老に登用せよとの勅諚が出ました。
(松平慶喜 出典:Wikipedia)
孝明天皇の命令を伝えるための勅使大原重徳は、島津久光とともに江戸へ向かい、幕府に勅諚を伝えました。
幕府はこれを受け入れ、松平慶永を政事総裁職に任命しました。
大老と老中は、譜代大名が就任する決まりがあったため、家門であった慶永を幕政に参加させるため、この政事総裁職が新設されたようです。
②島津久光と生麦事件
目的としていた幕政改革を幕府に行わせて望みを叶えた島津久光一行が、江戸から京都への帰路の途中、生麦村にさしかかった際、馬に乗った4人のイギリス人が前を横切って一行の行列を乱しました。
これに対し、無礼を働いたとして薩摩藩士の奈良原喜左衛門が4人に斬りかかり、商人のリチャードソンを死亡させ、2名に重症を負わせました。(生麦事件)
イギリスは幕府と薩摩藩に、謝罪と犯人処罰・償金支払いを求めてきました。
幕府は10ポンド(44万ドル)を支払いましたが、薩摩藩は拒否。翌年の薩英戦争後、薩摩藩は謝罪し償金を支払いました。
犯人の処罰も確約しましたが、実行には至らなかったようです。
まとめ
✔ 寺田屋事件は薩摩藩島津久光が尊王攘夷派志士たちを鎮圧した事件のこと。
✔ 尊王攘夷派は、島津久光の上洛を討幕に利用しようとした。
✔ 島津久光は武術に長けた鎮撫使を派遣し説得を試みたが、尊王攘夷派志士たちは応じず乱闘が勃発した。
✔ 尊王攘夷派の志士は、京都から追放されることとなった。
✔ 島津久光は、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に薦め、幕政改革を成し遂げる。
✔ 島津久光の一行は、京都への帰路の途中、外国人4人を斬る生麦事件を起こした。