【松下村塾とは】わかりやすく解説!!由来や四天王の塾生・吉田松陰の教えを紹介!

 

松下村塾は、江戸時代末期に現在の山口県萩市にあった私塾です。

(私塾とは個人が設立した教育機関のこと)

 

吉田松陰という長州藩主である日本の武士が指導していました。

 

短い期間しか指導しませんでしたが、江戸時代末期(幕末)から明治時代の日本を導いたさまざまな人物が学んだ場所として多くの人々が知っている歴史上で最も有名な私塾と言える場所です。

 

たくさんの優秀で、時代を代表するような出来事に関わる人たちの出身校と言われている松下村塾の四天王と言われる塾生や、吉田松陰の教えなどをわかりやすく説明します。

 

松下村塾の由来

(現在の松下村塾 出典:Wikipedia

 

 

現在、山口県萩市ですが江戸時代末期は長州萩城下の松本村と呼ばれていました。

 

松本村の「松本(まつもと)」を「松下(まつもと)」とし、松下の塾であることから「松下村塾」と名付けられました。

 

吉田松陰の妹が残した書に詳しく「松下村塾」の由来が書かれています。

 

【学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。】

 

現代訳にすると【学問とは、人としてどうあるべきかを学ぶことである。これを学ぶ塾の名前として、村名を取った】となります。

 

人としてどうあるべきか学ぶべき塾として村の名前を取ったということです。

 

人の原点=人が生まれた場所、ということです。

 

松下村塾の創設者

(現在の松下村塾、講義室 出典:Wikipedia

 

 

創設者は玉木文之進で、吉田松陰の叔父にあたります。

 

畳八畳一間から始まった私塾に、当時少年だった松陰も入門。叔父とはいえその厳格さは語り継がれています。

 

武士も町民もなく、この私塾では学ぶことが出来ました。

 

この時代、身分に隔てがないというのは珍しいことで、幕末にたくさん活躍した人たちを出しただけあり、その教えは当時にすると非常に革命的だったのです。

 

1857年に藩校明倫館(武士の身分の者しか入学できない松下村塾とは対照的な塾)の塾頭を務めていた松陰が塾を受け継ぎました。

 

この時の塾生はおよそ50名と言われています。

 

吉田松陰の教え

(吉田松陰 出典:Wikipedia

 

 

身分に関係なく入門できる松下村塾にはさまざまな身分の人がいました。

 

歴史・経済・地理学・倫理学・芸術など・・・・。

 

どんなことも教えていたと言われています。特に自身が遊学中に学び養われた知識を余すところなく教える世界史は素晴らしかったのです。塾生は皆、このたくさんの学びの中で、物事をあらゆる角度から見て、分析し、世界の動きをつかむよう教えられたのです。

 

また、松下村塾の大きな特徴は講義という形ではなく、塾生同士の討論が非常に多かったのです。時には松陰も討論に加わり、自分が教えられることもあったようです。

 

寝泊りを共にし、畑仕事をしたり、餅つきをしたり、塾生とのコミュニケーションを大事にしていたことがよくわかるエピソードが多く残されています。

 

松陰は中国の思想家である「孟子」を尊敬していました。教えの中には孟子の言葉が色濃く反映されています。

 

至誠にして動かざる者は 未だこれにあらざるなり

(誠の心を尽くして行動すれば、それに心を動かされない者はいない。)

 

この教えに背くことなく、信念にして生徒たちにも説いていました。

 

この時代には珍しい国際社会に生きる国際人になろうという考えをもって行動することの大切さを生徒に懸命に説いたと言われています。

 

学者のような学問だけの人間になるな、人間たる者「行動第一」であれ。

 

特に熱心に生徒たちに教えた言葉です。この思想から門下生たちが、「討幕」という動きを行動に移したのです。

 

 

また、松陰は「短所を活かす」ことがとても上手な人でした。

 

一見、短所と思われる一人一人の性格を変えようとせず、言葉でその短所を活かしあらゆる学問や武術に熱中させたのです。

 

この時代にあった学問所や私塾と全く違う教えであり、若者たちは大変共感できる新しい思想でした。だからこそ、門下生からとても慕われていました。

 

武士や名家から通う場所からより100人にも満たないと言われている小さな松下村塾から幕末の英雄とされる偉人がたくさんでてきた理由はこの松陰の教えにあります。

 

松陰自身の人生は決して成功であったとはいえませんが、優れた後継者を育てることに長けた人物であったと言えます。

 

松下村塾の四天王

たくさんの生徒がいる中で、松下村塾の四天王と言われている4名がいました。

 

①久坂玄瑞

(久坂玄瑞 出典:Wikipedia)

 

 

松陰自慢の弟子と言われた久坂玄瑞は、母親、父親、兄を亡くしてからは家督(その家を継ぐ者)として、藩医になりました。

 

藩校にも通っていた久坂玄瑞は秀才と言われていました。

 

松陰も彼の優秀ぶりには触れる機会が多く、医師として天性の才があるような頭の良さがありました。

 

 

②高杉晋作

(高杉晋作 出典:Wikipedia)

 

 

戦国から毛利家に仕えてきた長州藩名家・高杉家の跡取りである晋作。

 

江戸に遊学へ行ったり、上海へ留学した経歴を持ち、吉田松陰の思想に惹かれて松下村塾に入門しました。

 

そこで年下でありながら、とても優秀な生涯のライバルとなる久坂玄瑞と出会い、のちに幕府を討幕に追いやった人物となります。

 

久坂玄瑞と高杉晋作は松下村塾の双璧と呼ばれました。

 

③吉田 稔麿

(吉田 稔麿 出典:Wikipedia)

 

 

吉田 稔麿は一番最初の松下村塾生と言われている増野徳民に連れられ、塾生になりました。

 

無口で何事にも真面目に取り組むその姿勢を松陰から高く評価され、「無逸」という親愛の情をこめた字で呼ばれていました。24歳で無念の死を遂げています。

 

久坂玄瑞・高杉晋作・吉田 稔麿は松下門下の三秀と呼ばれました。

 

④入江九一

(入江九一 出典:Wikipedia)

 

 

入江九一は足軽の家に生まれ、入江家の跡取りになってから松下村塾に入門しました。

 

養う家族がいたため、あまり塾に通えませんでしたが、その優秀さから松陰に高く評価されていました。

 

松下門下の三秀(久坂玄瑞・高杉晋作・吉田 稔麿)と入江九一は松下村塾の四天王として今も語り継がれています。

 

松下村塾が世界遺産に

2015年ユネスコの世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が登録されました。

 

この中には「松下村塾」も含まれています。

 

国の史跡にも指定されており、松下村塾の四天王のほか、伊藤博文・山縣有朋なども輩出。幕末から明治維新で名を連ねる多くの人がここで学んでいます。

 

 

まとめ

・松下村塾の名前の由来は萩市松本市の「松本」から名付けている。

・生まれた場所の名前を由来にしたのは人の原点とは生まれた場所と考えから。

・吉田松陰の教えは・・・・

物事をあらゆる角度から見て世界の動きを分析せよ。

国際社会でも生き抜ける国際人になること。

学者のような学問だけの人間になるな。

「行動第一」であれ。

短所を活かし、個人の力を引き出す。

・久坂玄瑞・高杉晋作は「松下村塾の双璧」と言われた。

・吉田 稔麿・久坂玄瑞・高杉晋作は「松下門下の三秀」と言われた。

・入江九一・吉田 稔麿・久坂玄瑞・高杉晋作は「松下村塾の四天王」と呼ばれた。

・2015年世界遺産としてユネスコに登録された。