“四民平等”と“解放令”は明治になるときの諸々の改革の中で聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

 

今回は『四民平等と解放令』について、これらの改革が行われた理由とその背景について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

四民平等と解放令の違い

 

 

いずれも明治維新で取り組まれた改革となります。

 

明治新政府は天皇のもとに国民を一つにまとめようと、皇族以外はすべて平等であるとしました。その際、武士()百姓()町人(工商)を一つにするために今までの身分制度を廃止。その時の政策(スローガン)を“四民平等”と言います。

 

また、これまで士農工商外のえた身分やひにん身分として差別されてきた人々に対しても、1871にはその呼び名を廃止し、身分や職業も平民と同じとする令をだしましたが、これが“解放令”です。

 

まとめると…

四民平等・・・明治政府の身分制度廃止の政策(スローガン)のこと。

 

解放令・・・被差別民へのえた・ひにんの名称廃止と平民と同等にするという令のこと。

 

ここからは身分制度の成立からその後まで詳しく解説していきます。

 

身分制度の変移

 

 

まずは身分制度の変移について簡単にみてみましょう。

 

①律令制度のもとで

古代日本の律令制では、645年の良賤法により国民は大きく「良民」「賤民(せんみん)に分けられていました。

 

全国の民は戸籍に登録され、それぞれの身分に応じた土地(口分田)を与えられ、それに見合う税を納めていくという班田収受法を基本とした支配体制でしたね。

 

良民には官人(かんじん)【役人】・公民【農民】・品部(しなべ)・雑戸(ざっこ)【技術者】の4つが、賤民は「五色の賤」と呼ばれて、使える人や内容によって5つありましたが、国に仕えていた陵戸(りょうこ)官戸(かんこ)公奴婢(くぬひ) /官奴婢(かんぬひ)と個人に仕えていた家人(けにん)私奴婢(しぬひ)とに分けられていました。

 

奴婢たちは逃亡を禁じたり売買の対象になったりと非人道的な扱いを受けていたようですが、主人が届け出すれば解放されたり、家が断絶したりしたら良民になったりできたようです。

 

そして、律令制の崩壊とともにこの制度も形骸化していきます。

 

②中世の身分制度

平安末期の荘園制度の発展などを受け、律令制は廃れていきます。

 

武士が台頭していき、土地支配を根幹とした封建制度による幕府支配などが始まると全国での統一的な身分制度がはっきりしない状態になっていきました。

 

公家、武士、農民、町人など位の区別はあったと考えられますが、この頃被差別民が発生したとも言われています。

 

当時は村の自治組織が発達した時期でもあり、村のまとまりが強まる中でそれ以外のものに対する差別意識がはっきりしていきました。

 

この頃「非人」として特定の職業や芸能についたものを呼んでいましたが、これが後に被差別民の呼称となっていきます。

 

③被差別民の発生

中世では、自然の状態を変えたり、死や出血などの通常と異なる事態にかかわったりすることを「穢れ:ケガレ」と呼んで恐れていたそうです。

 

「ケガレ」はそれを持つものが共同体にいると、その共同体自体が穢れると思われていたために、「ケガレ」に触れる仕事や「ケガレ」を元の状態に戻す「キヨメ」という仕事に従事する人々は、高度な技術を持ちながらも畏怖の念をもって差別されていました。

 

鉄の農具を治す鍛冶や布を染める染色もそのような仕事とされました。

 

また、河原で死んだ牛馬の皮のなめしをするもの、河原の石で井戸掘りや庭園づくりをするもの、場を作り芸能をみせるものなどを「河原者」と呼び蔑視していたようですが、現在の日本文化の代表である日本庭園や芸能(歌舞伎など)はここから発達していったと考えると非常に矛盾したものを感じます。

 

④近世の身分制度

身分制度とは一体…というくらい混迷した戦国時代を経て、天下統一を果たした豊臣秀吉は農民から武士になった所謂成功者ですね。

 

 

Toyotomi hideyoshi.jpg

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia

 

 

逆に自身が成りあがった者だった故なのか、以後同じような者の出現は許しませんでした。

 

「刀狩」「太閤検地」による兵農分離政策を徹底して行っていくことで、徐々に農民と武士の区別がはっきりしてくるようになります。

 

 

その上で武士の特権をさらに強めて武士政権を長く続けたのが江戸幕府となるのです。

 

江戸時代の身分制度

①士農工商

元々、この言葉は「老若男女」みたいな四字熟語のようなものです。

 

儒教でいう官吏・農民・職人・商人といった職業区分の概念で、職業全般をさしているとも考えられ、「四民」ともいわれます。

 

よって前述した内容で誤解があるかもしれませんが、士農工商の“4つ”の身分を平等にしたから、「四民平等」ではなく“あらゆる職”を平等にした、いう意味で「四民」という言葉が使われていると思った方がいいかもしれません。

 

20年くらいまでは江戸幕府の身分制度をこの言葉で習っていましたね。

 

実際にはこの言葉を身分制度として示したのは、明治政府が江戸期の身分制を印象付ける為だったらしく、現在ではこの言葉はほとんど使用していません。

 

教科書でも太字にはなってないはずです。

 

 

②大きく3つとその他

江戸時代には、大きく武士・百姓・町人に身分を分けていました。

 

簡単に説明すると…

 武士

支配階級の人であり、武士の中でも上下ははっきりしていました。帯刀と名字が許されていました。主君に仕え、軍役などの仕事がありました。

 

 百姓

農村に住む人のことで、農業や林業、漁業などに従事していました。土地を持つ【本百姓】と持たない【水のみ百姓】がいました。年貢を納めて、村で自治を行っていました。

 

 町人

都市に住む人で商人や職人などです。土地をもっている【地主】や家を持っている【家持】と呼ばれる人や、自分では持たずに借りる【地借】などと呼ばれる人がいました。営業税などがありましたが、年貢よりは軽かったみたいです。

 

これ以外にも公家や寺院の僧侶、神職の人もいました。

 

そしてえた・ひにんと呼ばれるさまざまな制限を受けた被差別民もいたのです。

 

「えた(穢多)」:穢れが多いという意味の言葉が使われていることからも、中世の影響がそのままという感じがしますね。

 

さらにこの時代に幕府によって百姓などの不満を抑える為に下の身分として区別されたことが、差別意識に拍車をかけることになっていったのです。

 

明治政府の改革

①四民平等をスローガンに!中央集権国家の形成

明治の新政府の大きな課題は中央政府が全国を治める中央集権国家を作り上げることにありました。

 

天皇を中心とした国家を目指す上で、身分制度を改めたのは当然の流れかもしれません。

 

“四民平等”のスローガンのもと、皇族以外は華族(公家・大名)・士族(武士)・平民(百姓・町人)とし、それらを平等にするということにしました。

 

具体的には武士の特権を排除し、身分を越えた結婚や職業・移転の自由を認めたのですが、実際は各階級での差別は払拭できていなかったようです。

 

②解放令の発令とその後

“四民平等”に続き、“解放令”によりえた、ひにんの名称を廃止して身分も平民同様としましたが、実際にはその後も職業、結婚、居住場所などで差別は根強く続いたのです。

 

1871に解放令が出たことで、今まで被差別民の主要産業だった皮革産業への進出を狙っていた大商人達が喜びました。巨大資本の参入によって、彼らの重要な産業が奪われていったのです。差別はなくならず、さらに経済的にも追いつめられてしまったのです。

 

その後、差別からの解放と生活向上を求める運動(部落解放運動)が各地で起こるようになり、1922年全国水平社が結成されます。

 

(東京都にある部落解放同盟中央本部"前進:全国水平社" 出典:Wikipedia

 

 

戦前から戦後を通して様々な政策もとられましたが、残念ながら今日でも根強くその差別が残っているのが実情です。

 

さらに情報化社会の中で状況が悪化してきたことから、2006年部落差別解消推進法が公布、施行されました。

 

教育の中でも様々な対策がとられています。女性差別、民族差別もそうですが、行政の努力のみならず、個々人の既存概念の払拭や意識改革など課題は山積みですが、一歩でも一人でも前に進むものがいれば、いつかよい未来をつかむことができるのではないでしょうか。

 

まとめ

 「四民平等」は明治政府の身分制度廃止スローガンのこと。

 武士の特権をはずし、皇族以外は平等とすることにしたが、実際は華族・士族・平民で階級感は残っていた。

 解放令は被差別民へのえた・ひにんの名称廃止と平民と同等にするという令。

 解放令により差別はなくならず、逆に経済的に困窮することになった。

 部落解放運動などを通じて今日までも差別からの解放をめざしている。

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