平安時代における重要な政治システムである摂関政治と院政。

 

この二つのシステムは同じように見えて実は重要な違いがあったのでした。

 

今回はそんな『摂関政治と院政の違い』についてわかりやすく解説していきます。

 

摂関政治と院政の違い

 

まず最初に摂関政治と院政の違いについてみていきましょう。

 

それぞれの違い

  • 摂関政治・・・藤原北家の有力者が自身の娘を天皇に嫁がせて自身は摂政や関白に就任し政治を動かしていくシステムのこと
  • 院政・・・天皇の父が治天の君として天皇に変わり院というところで政治を動かしていくシステムのこと

 

このように、摂関政治と院政は同じ天皇を陰で操り政治の実権を握る形態なのですが、その方法の違いや就任できる人が全く違うという特徴があったのです。

 

摂関政治のやり方

①摂関政治の成立

摂関政治を語る上で外せないのが藤原家

 

その中でも藤原北家と呼ばれる人たちが摂関政治を動かしていくことになるのです。

 

まず、藤原北家の人たちはいろんな手段を使って藤原北家の勢力を脅かしかねない一族たちを次々と潰していきます。

 

応天門の変安和の変などがこれに当たりますね。

 

 

そして、他家を順調に潰していった藤原北家は藤原基経の時代の887年に、阿衡の紛議と呼ばれる政治闘争に勝利したことによって藤原北家は天皇以上の権力を手に入れ、その後100年の間摂関政治を行なっていくことになるのです。

 

 

ちなみに、摂関政治の摂は幼い天皇や病弱だった天皇を補佐する役職である摂政のことであり、関は成人した天皇の補佐をする関白のことを指します。

 

②摂関政治時代の天皇

摂関政治が始まった時の天皇は第56代天皇である清和天皇でした。

 

 

(清和天皇 出典:Wikipedia

 

 

この天皇はのちに源頼朝を排出する清和源氏の祖としても有名ですね。

 

その後、天皇家は藤原北家との関係が深い陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇と続き、第71代の後三条天皇まで続いたのでした。

 

③摂関政治の勢力の基盤とは?

政治を行うためにはお金がどうしても必要ということは藤原北家もこのことはよくわかっていました。

 

そのため、藤原北家は摂関政治によって天皇の代理人になったことを生かして荘園と呼ばれる土地の確保に動き出すことになるのでした。

 

 

まず藤原家は国司(地方の長官)となりたい人からどんどん成功(ずりょう)と呼ばれる賄賂がどんどん贈られてくるようになります。

 

まぁ、藤原家は天皇の後見者でしたから賄賂を贈るのは当然といえば当然ですけどね。

 

そしてさらに藤原北家は荘園を持っている人からその権利を渡された荘園である寄進地系荘園もたくさん所有していました。

 

そのため、毎年その荘園から入ってくる年貢により藤原北家の懐はホカホカとなっていきます。

 

いろんな人から送られてくる賄賂と寄進地系荘園によって莫大な富を得た藤原北家でしたが、こうなるとこのままの状態で居たいために政治をすることがどんどんなくなっていきます。

 

そのため、この摂関政治の間では特に大きな改革が行われることはありませんでした。

 

なぜ摂関政治は衰退したのか?

 

(後三条天皇 出典:Wikipedia

①後三条天皇の即位

摂関政治が一気に衰退した最大の理由として後三条天皇の即位がありました。

 

実はこの後三条天皇。なんと藤原家の血があまり通っていない天皇でもあったのです。

 

まず、大前提として摂関政治をするためには天皇に娘を嫁がせて、そして生まれた子供を天皇にしなければなりません。

 

そのため、天皇が藤原家との関係が薄い人だったら藤原家の権力基盤は一気に弱まることを示していたのでした。

 

ちなみに、藤原家の関わりが薄い天皇の誕生は醍醐天皇以来170年ぶりであることも見れば、この後三条天皇の即位がターニングポイントになることがよくわかります。

 

②後三条天皇の政治改革

こうして即位した後三条天皇。

 

そして藤原家の関わりが薄い、この天皇は一気に藤原家の排斥を始めていくことになるのです。

 

まず、後三条天皇は桓武天皇の政治を目指すために藤原北家を政治の重職から外し、その代わりに源師房などの村上源氏を採用していきます。

 

そして、権力をなくすことに成功した後、三条天皇は藤原北家の勢力基盤であった荘園にも手をつけ始め、1069年に延久の荘園整地令を発令します。

 

これによってかつて藤原北家が手に入れていた荘園を朝廷の断りがあるもの以外は没収。

 

さらにちょうど同じ頃に藤原北家では家督争いが起こっており、この状況に対抗することができなかったのでした。

 

こうして、藤原北家が独占していた摂関政治の時代は終わり、その代わりに院政と呼ばれる新しい政治に変わっていったのでした。

 

 

院政のやり方

①上皇が権力を掌握

こうして後三条天皇は藤原北家を排斥しましたが、これ以降政治の権力は天皇に行くかと思いきや、そうはなりませんでした。

 

その理由の一つとして後三条天皇が40歳で若死してしまったことにあります。

 

その後、天皇の座は白河天皇に移ることになりますが、白河天皇は最初の頃は藤原北家と協力しており、院政を自ら行うことはありませんでした。

 

しかし、藤原北家の当主である師通と師実が相次いで病死。こうして天皇自らが政治を行う形態が確立されますが、白河天皇はいきなり8歳の堀河天皇に譲位を行い上皇となります。

 

天皇ではなく上皇となれば私有財産も持てますし、一応身分的には自由となります。

 

そして上皇は治天の君と呼ばれる政治の権力者となったのでした。

 

②院庁下文と院近臣

こうして白河上皇は治天の君となり院にて政治を行うようになりましたが、こうなると家臣たちは天皇ではなく上皇側へと就くようになります。

 

この上皇についた家臣のことを院近臣(いんのきんしん)と言いますが、なんとこの院近臣になるには上皇のコネさえあれば誰でもなれることが出来るのです。

 

そのため、この院近臣となりたい人たちはどんどん自分の土地と財産を上皇に賄賂を送るようになります。

 

こうしていつしかの摂関政治と同じ勢力基盤を築き上げた治天の君は、自ら政治を行うために院庁下文と呼ばれる命令書を送るようになります。

 

この院庁下文は天皇の命令よりもはるかに重要的なものであり、天皇の権力はどんどん形骸化。

 

院政と呼ばれる政治システムが確立されたのでした。

 

③武士の台頭と院政の陰り

こうして院政は行われ始まりましたが、この時を同じくして武士がどんどん台頭していくこととなります。

 

実はこれには白河上皇の悩みが関連しており、当時平安京では延暦寺や園城寺による無茶苦茶な強訴が横行していました。

 

普通なら退治しろという話なんですが、仮にでも延暦寺と園城寺は天台宗の重要な寺討伐すればとんでもない結末が待っています。

 

『鴨川の水と双六の目と山法師には絶対にかなわない』と白河上皇は自然災害と偶然と同じく強訴のことを、どうしようもないものとして、みていたのです。

 

しかし、これを守ったのが北面武士と呼ばれる武士でした。

 

北面武士は延暦寺の強訴を防ぐ役職のことですが、これは伊勢平氏が担当していました。

 

そして、この伊勢平氏がのちに院政を超える権力を握り、院政の時代から武士の時代へと変わっていくきっかけとなっていくのでした。

 

まとめ

 摂関政治は藤原北家が自分の娘を天皇に嫁がせてその天皇を即位させて自は後見人となる政治システムのこと。

 院政は上皇が治天の君と呼ばれる立場について天皇の後見者となる政治システムのこと。

 摂関政治は後三条天皇の即位によって衰退した。

 摂関政治と院政は荘園や財産の賄賂によって権力基盤を築いていた。

 延暦寺と園城寺の強訴に対して対抗した北面武士であった平氏は武士による政治を築くきっかけとなった。




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