藤原道長の時代に全盛期を迎える藤原摂関政治ですが、藤原北家の台頭は9世紀に行った他氏排斥と天皇との結びつきによるものにより始まりました。

 

今回は、臣下が初めて摂政に就くこととなった藤原良房の時に起こった『応天門の変(おうてんもんのへん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

応天門の変とは?

(伴大納言絵詞「応天門炎上の様子」 出典:Wikipedia

 

 

応天門の変とは、866年に起こった伴氏と源氏の権力争いの一つです。

 

この争いにより藤原氏の他氏排斥が完了し、藤原氏に権力が集中。藤原摂関政治の始まりとなりました。

 

応天門の変が起こった原因

①藤原北家の台頭

嵯峨天皇と平城上皇は「二所朝廷」と言われるほど対立していました。

 

そこで、嵯峨天皇の政策に難癖をつけた平城上皇は810年に藤原仲成と藤原薬子(藤原式家)とともに、平城上皇の重祚(退位した天皇がもう一度天皇に即位すること)と平城京への再遷都を企てました。

 

しかし、これは嵯峨天皇が迅速に動いたことにより失敗に終わりました。

 

もちろん、企てに参加した二人は処分されてしまい、藤原式家は衰退することとなってしまいました(藤原薬子の変)。   

 

 

当時、藤原薬子は、天皇の命令を太政官に伝えるという職務(尚侍(なかしのかみ))についていました。

 

つまり、平城上皇の変では、嵯峨天皇は藤原薬子という臣下に命令を伝える仕事についていた者が、敵に回ってしまい、天皇の命令が臣下に伝わらない、という状況になってしまいました。

 

そこで、嵯峨天皇は、天皇の命令が尚侍を通さなくても、臣下に伝わるように「蔵人頭」を設置しました。

 

そして、初代蔵人頭に任命されたのが藤原北家の藤原冬嗣でした。

 

 

(藤原冬嗣 出典:Wikipedia)

 

 

ここから藤原北家の大躍進が始まっていきます。

 

②外戚関係の構築

権力を持ち始めた藤原北家は、天皇の母方と親戚関係を結ぶ外戚関係を構築したい、と考えていました。

 

つまり、藤原北家の人が天皇の母となり、天皇を自分たちの思い通りに動かし、権力を保とうとしたのでした。

 

嵯峨天皇の後の天皇は、嵯峨天皇の子の仁明天皇が天皇に即位し、嵯峨上皇が実質的な政治を行っていました。

 

嵯峨上皇の政治は約30年間にわたり、安定していました。

 

その間に藤原北家の藤原良房は嵯峨上皇の信頼を着々と得ており、仁明天皇に妹順子を嫁がせることに成功しました。

 

 

(藤原良房 出典:Wikipedia)

 

 

当時、皇太子(次の天皇)には、嵯峨上皇の妹と淳和上皇の子である恒貞親王がなっていました。

 

しかし、仁明天皇と順子の間に道康親王が誕生すると、道康親王の伯父である良房はもちろん、道康親王を皇太子にしたいと考えました。

 

③他氏排斥

道康親王が誕生し、皇位継承問題が発生している中、840年に淳和上皇が崩御。すぐの842年に嵯峨上皇が重い病を患ってしまいました。

 

恒貞親王に仕えていた橘逸勢伴健岑は、恒貞親王の御身が危ないと考えて、東国へ恒貞親王を移すことを計画しました。

 

しかし、この計画は良房の知れるところとなってしまいました。

 

ほどなくして嵯峨上皇は崩御すると良房はすぐに「謀反事件」とし、橘逸勢と伴健岑を流罪に恒貞親王の皇太子の位を下ろす処分を行いました。

 

この事件は「承和の変」と呼ばれ、有力家臣であった伴氏と橘氏を失脚させることに成功し、藤原北家の初めての他氏排斥事件でありました。

 

承和の変後に、外戚関係である道康親王を文徳天皇に就けることに成功した良房は、次の清和天皇の代では事実上摂政としての役割まで果たす権力を持っていました。

 

応天門の変の経過

①事件発生

大納言であった伴善男と左大臣であった源信は不仲であり、政敵でした。

 

 

(伴善男 出典:Wikipedia)

 

 

866年に伴善男は源信の失脚をねらい、自分(伴善男)が右大臣に就くために、源信の仕業だと思わせるようにして、応天門に火をつけました。

 

応天門は、朝廷内の政務を行う重要な場所である朝堂院の正門だったため、朝廷の人々はとても混乱しました。

 

事件の後、伴善男は右大臣だった藤原良相に「源信が応天門に放火をしたに違いない」と密告します。

 

すぐに藤原良相は源信を捕まえるべく家を包囲しますが、太政大臣であった良房が清和天皇に源信の弁護をしたことにより、源信はなんとか無罪とされました。

 

②真相解明のきっかけ

事件が発覚した経緯が「伴大納言絵詞」という絵巻に描かれています。

 

まず、舎人の子どもと伴善男の出納の子どもが喧嘩をしていました。そこへ出納がやってきて、舎人の子どもをボコボコにしてしまいます(出納は伴善男の衣を借りて威張っていました)

 

子どもをボコボコにされた舎人は怒り、「伴善男が応天門に火を付けた」ということをばらしてしまいました。

 

応天門の変のその後の影響

(復元された平安神宮の応天門)

①処罰

告発を受け、伴善男など数名の首謀者の取り調べが行われました。

 

犯行を認めていなかった伴善男でしたが、「他の共犯者が犯行を認めたぞ」というウソを言われ観念し、伴善男は犯行を認める自白を行いました。良房は伴善男犯人と断定し、伊豆国に流罪としました。

 

そのほか、有力官人だった紀豊城も、首謀者であるとして安房国に流罪とされました。

 

有力官人であった伴氏、紀氏ともに失脚することとなってしまいました。

 

②事件の真相

伴善男は右大臣の座を狙い、左大臣である源信の失脚を企てていました。

 

事件の後すぐに右大臣である藤原良相が捕縛に動いたことを深読みする説もあります。

 

つまり、源信が失脚することは、伴善男だけでなく、藤原良相も左大臣に就任するチャンスであり、二人は共犯者だったのではないかと言われています。

 

事件後、藤原良相が処罰されていないことから、良房は共犯者とは認定されませんでした。

 

また、良房は「応天門の放火は伴善男が犯人だ」と決めつけましたが、事件の告発をした舎人は身分が低い者であったことや、結果として良房の一人勝ちとなったため「実は、良房が黒幕ではないか」との説もあります。

 

しかし、どれも真相はわかっていません。

 

③藤原摂関家の誕生

この処分後、源信と藤原良相の左右の大臣が相次いで急死し、朝廷の全権力が良房のもとに集中することとなりました。

 

ついに、866年に良房は臣下として初めて摂政の職に就任することとなりました。

 

藤原氏の権力は、良房の養子である藤原基経にも受け継がれ、基経は876年に摂政に880年には太政大臣にまで就任し、権力をふるいました。

 

途中、藤原氏を外戚としない、宇多天皇(891897年)もいましたが、有名な歌「此の世をば 我が世とぞ思ふ もちつきの かけたることの 無しと思へば」を読んだ藤原道長の時代へと藤原家の摂関政治は続いていきました。

 

 

まとめ

✔ 当時は藤原北家が天皇との外戚関係を利用して、権力を持ち始めた時代だった。

✔ 応天門の変は、右大臣になりたい伴善男が源信を陥れるための事件だった。

✔ 結果として、伴氏は失脚し藤原良房以外の者が急死したため、良房の一人勝ちとなり藤原氏の勢力が拡大した。

✔ これより先、藤原氏による摂関政治の時代が続いていき、藤原道長の時代に全盛期を迎えることになった。

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