【安保闘争とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ起こった?原因や樺美智子などについて

 

今でもたまに見ることがある学生運動の映像。

 

1960年から1970年までの間は各地でデモが行われていました。

 

今回はそんなデモの一つである『安保闘争』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

安保闘争とは?

(国会を取り囲むデモ隊 出典:Wikipedia

 

 

安保闘争とは、1960年と1970年に起きた日米安全保障条約改定に反対する一大運動のことです。

 

1960年にはこの安全保障改定は一応無理矢理可決されましたが、これを受けて岸信介内閣が総辞職するなどの影響が生まれ、各地で左翼の運動が起きました。

 

1970年には安保条約の更新に対してデモが行われましたが、これの安保闘争によって日本における左翼の運動が低迷。日本社会党などが衰退してしまいました。

 

安全保障条約とは?

(日米安保条約 出典:Wikipedia

 

 

安全保障条約(安保条約)とは簡単に言えば、条約を結んだとある国が攻撃された時に条約を結んだすべての国が介入して助けるという軍事条約です。

 

安全保障条約の代表的な例は西側諸国の連帯を強めた北大西洋条約、東側諸国の連帯を強めたワルシャワ条約、さらに日本とアメリカの連帯を強めた日米安全保障条約などがあります。

 

安保闘争はなぜ起こった?「日米安全保障条約改定までの道のり」

①日米安全保障条約の締結

1951年、日本はサンフランシスコ平和条約によってようやく独立が認められ、立派な西側諸国の一員として認められました。

 

しかし、冷戦の最中なのに日本国憲法第9条には戦力を持ってはいけないと書いていたため、もし攻撃されたら日本はひとたまりもありません。

 

そこでアメリカは日本が攻撃された時にアメリカ軍が助けるようにする条約をサンフランシスコ平和条約と同じ日に結びます。これが日米安全保障条約(正式名称日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)です。

 

この条約の内容には・・・

日本はGHQが解体されてもアメリカ軍が日本に駐留することを認める

日本はアメリカが認めない第三国へよ基地提供を禁止する

など日本はアメリカに頼らなければいけない状態となります。

 

さらにアメリカが日本を必ず助けるとは決められておらず、日本にとったら大変不平等な条約でもありました。

 

②岸信介の条約改定交渉

こうして安保条約は結ばれましたが、こんな条約側から見たら日本はアメリカの属国として見られてもおかしくないような内容でした。

 

そんな中、当時の首相であった岸信介という人はなんとかして日本とアメリカとの対等な安保条約を望んでおり、自主的でアメリカと対等な日本を目指していました。

 

(岸信介 出典:Wikipedia)

 

 

そこで岸信介は首相になったその年からアメリカとの交渉を開始。

 

アメリカとしても当時、朝鮮戦争やベトナム戦争などでアジア全体が社会主義国化する傾向があり、韓国と並んで貴重な西側諸国であった日本に軍事力をもたせたいと考えていました。

 

そして、当時のアメリカの大統領であったアイゼンハワー大統領は1960年に日本との日米安全保障条約を改正しました。

 

その改正後の内容は・・・

⑴ 日米両方が憲法に従って日本を防衛する

⑵ 日本とアメリカのどちらかが攻撃されたらその片方の国も協力する

⑶ 日米両国がお互いに経済協力して発展することに努める

⑷ 安保条約は10年ごとに条約を更新する

などのという前の安保条約とはうってかわって日本とアメリカが対等な条約改定をすることに成功しました。

 

安保闘争の勃発

 

こうして日米安全保障条約が改定されてめでたしめでたしとなればいいのですが、実はそうはなりませんでした。

 

日本における条約締結や改定にはその後に国会での承認を受けなければ成立しません。

 

さらに、岸信介自体が太平洋戦争の時の閣僚でありA級戦犯に認定されている事情もあったことから、国内では「あれ?もしかしたら日本がまた軍国主義に戻るかもしれないんじゃね?」と思う人が出てきます。

 

さらに左翼政党であり、反アメリカ派であった日本社会党と日本共産党がこの改定に猛反発。

 

共産党から離れた学生たち中心の組織であった共産主義同盟や全日本学生自治会連合(全学連)も安保条約に対する反対デモを行いこうして安保闘争が始まりました。

 

①安保条約の強行採決

(衆議院での強行採決の様子 出典:Wikipedia)

 

 

安保条約に対する反対デモが起こり始める中、結んだ以上なんとかして可決させたい岸信介は安保条約に反対する社会党と共産党を国会から排除して、5月20日に無理矢理新安保条約を衆議院で可決。

 

この無理矢理とも言える可決についに我慢の限界に達した安保改定阻止国民会議は全国各地で反対デモや集会を行い、さらには30万人以上のデモ隊が国会議事堂を取り囲み大規模な反対デモを行いました。

 

②ハガチー事件と樺美智子の死

さらに怒りの矛先はアメリカにも向けられてしまい、アイゼンハワー大統領の訪日の相談をするために来日していたハガティ報道官をデモ隊が取り囲み動けなくして救出されるという事件が起きます。

 

(ハガティを避難させる米ヘリコプター 出典:Wikipedia)

 

 

さらに右翼団体などの衝突によって樺美智子が圧死する事件も起きこれによって学生が暴走し始めてしまいました。

 

また、右翼団体による社会党襲撃も起き、社会党委員長であった浅沼稲次郎が暗殺されてしまうという事件も起きました。

 

これを受けて岸信介は臨時声明を出してさらに治安部隊が出動しかけるという事態が起きました。

 

しかし、デモを行っても結果は変わることなく可決から30日が経つと参議院も通過。安保条約は成立します。

 

しかし、事態が収拾つかなくなってしまったことを受けて岸信介内閣は総辞職。こうして一応安保闘争は終わりました。

 

70年安保闘争

 

 

安保条約改定が成立してから9年後の1969年。安保条約の項目の中にあった10年ごとに更新することになりました。

 

この頃日本では学生運動が盛り上がりを見せており、安田講堂事件や日大闘争などの事件が多発していた頃でもありました。

 

こうした中、学生運動は安保条約更新にも及び各地で再び安保条約に反対するデモが起きてしまいます。

 

しかし、これも特に国会に影響はなく安保条約は何事もなく更新されることが決定しました。

 

さらにこの頃、左翼団体などは成田闘争ベトナム反戦運動なども行っておりどんどん疲弊。

 

各地で内ゲバや衝突が起き、さらには連合赤軍があさま山荘事件などのテロや犯罪行為をやらかしてしまったこともあり、日本全体で共産主義者=テロ組織というイメージが定着してしまいます。

 

社会主義に対する反感が巻き起こってしまい、1969年の総選挙では自民党が議席を大きく伸ばす一方、社会主義を掲げていた社会党は50議席も失うという大敗北を喫してしまい、その後も社会党はリクルート事件が起き、マドンナ旋風が起こる1990年代まで低迷するという事態に陥りました。

 

しかし、安保条約をめぐる反対運動は今でも続いており日本における新左翼運動につながっています。

 

まとめ

・安保闘争は日本が安保条約を改正したことに怒った人たちによって起こった大規模なデモのこと。

・この安保条約の改正は日本とアメリカが対等になった軍事条約であったが、これによって日本が戦争に巻き込まれる危険性が出てきてしまった。

・この安保闘争によって岸信介が内閣を総辞職した。

・1970年にも安保闘争が起きたが、この安保闘争によって左翼のイメージが悪化して社会党のイメージが下がってしまった。