今からおよそ100年前、中国で300年近く続いた清王朝が滅亡する革命がありました。
辛亥革命(しんがいかくめい)。
かつて作られた映画「ラストエンペラー」の始まりがこの革命でした。
今回はそんな『辛亥革命』の流れが複雑なので原因・結果・影響などわかりやすく解説していきます。
目次
辛亥革命とは
(辛亥革命時の南京路 出典:Wikipedia)
辛亥革命とは、1911年~1912年にかけて起こった清王朝を滅ぼし中華民国を成立させた革命のことです。
辛亥というのは戊辰(ぼしん)・壬申(じんしん)などと同じで年代を表す言葉です。
辛亥革命が起こった背景
(洋務運動時の漢陽にある兵器工場)
①欧米技術を取り入れる(洋務運動)も限界
アヘン戦争以後、清王朝は欧米に対抗するために欧米の技術を取り入れた改革を進めます。(これを洋務運動といいます)
政治体制はそのままに技術を取り入れる「中体西用」を進めました。
ところが、1894年の日清戦争の敗北で技術だけを取り入れる洋務運動の限界は明らかになり、政治改革が必要だと考えられたのです。
②変法運動!しかし、失敗
光緒帝を中心に康有為ら若い官僚らが明治維新をモデルとした根本的な改革である変法運動を始めました。
日本のように立憲君主制をめざしましたが、西太后ら保守派のクーデタでこれも失敗します。
③義和団事件で半植民地化へ
義和団事件とは、反外国団体である義和団と清王朝が手を組み、欧米列強に宣戦布告した事件です。
日本やロシアを主力とする軍隊が清国に派遣され、北京を占領。
清王朝はこれに屈服し列強の要求を次々と飲まされ、半植民地化されました。
④もう限界・・・!漢民族による革命運動
清王朝の支配者である満州人に対して、漢民族が反発を強めます。
改革を進められず腐敗ばかりが進む政府。欧米列強による半植民地化。
華僑や留学生たちは清国を倒す革命のための組織を作りました。
⑤革命の指導者!孫文の登場
孫文は1894年にハワイで興中会をつくると、徐々に同士を集めて団体を大きくしていきました。
1905年、孫文は東京で中国同盟会をつくります。
活動の原則として三民主義(民族の独立・民権の伸長・民生の安定)を唱えました。
この時、中国同盟会結成の会場には日本人支援者である宮崎滔天の姿もありました。
この頃から孫文は清王朝から要注意人物として追い掛け回されるようになります。
辛亥革命のはじまり【きっかけや原因】
辛亥革命のきっかけ・原因となったのは、清王朝がイギリス・フランス・ドイツ・アメリカの四カ国から資金を借りて民間鉄道を国有化しようとしたことです。
外国から独立しなければならないのに、さらに外国から借金をしようとする清王朝に漢民族の怒りが爆発しました。
そして、1911年9月、四川省で暴動に発展しました。辛亥革命の始まりです。
辛亥革命の経過と結果
(武昌起義での革命軍の様子)
①辛亥革命の始まり。武昌蜂起!
清王朝はこれまでの軍隊に加えて近代化するために新たに軍を作りました。
その軍を新軍といいます。
長江流域にいた新軍内部の革命派が武装蜂起し、地域の中心都市である武昌起義を占領します。
②みんな賛同。革命の拡大
各省に置かれていた軍の多くは武昌蜂起に賛同して革命が拡大します。
革命の動きは全国に拡大し、1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京で成立しました。
これにより中国南部は革命軍の支配下に入りました。
③革命の鎮圧のため、袁世凱が登場
(内閣総理大臣時の袁世凱)
革命を鎮圧するため、清王朝が起用したのが袁世凱でした。
袁世凱は日清戦争のころの実力者李鴻章の信任を得て勢力を拡大。李鴻章の死後は北京周辺を支配する総督となっていました。
彼は義和団事件でも自分の軍隊を温存することができていたので、当時の中国で最強の部隊を維持していました。
いわば、清王朝は最後の切り札を切ったわけです。
④袁世凱の裏切り・・・結果、革命軍の勝利
(革命軍に投降する清軍)
清王朝最強の軍隊を率い孫文と向き合った袁世凱。袁世凱は孫文と取引をします。
清王朝の皇帝である宣統帝を退位させ、清王朝を終わらせる代わりに自分を中華民国の大総統にするというものです。
勢いがあるとはいえ寄せ集めともいえる孫文の革命軍からすると、絶対に勝てるといえる相手ではありませんでした。
孫文は取引に応じ、大総統の座を袁世凱に明け渡します。袁は約束通り皇帝を退位させ、清王朝は滅亡しました。
辛亥革命のその後
(孫文の肖像画 出典:Wikipedia)
①袁世凱の独裁と失敗
革命の結果、中華民国はアジアで初めての共和国として成立しました。
しかし、袁世凱は自分が権力を握るために孫文と交渉しただけで、共和国を維持するつもりなどありませんでした。
1915年、袁世凱は自ら皇帝に即位しようとしますが周囲に支持を得られず、皇帝即位をあきらめ失意のうちにこの世を去ります。
②孫文の動き
大総統を袁世凱に譲った後、孫文は袁世凱から政権を取り戻そうとして失敗します。
その後、日本に亡命して体制の立て直しを図ります。そして、1914年には中華革命党を結成。
1921年にできた新勢力である中国共産党とも手を組みます(第一次国共合作)。
南部の広州で国民政府をつくり再び革命を進めようとしますが、1925年に死去します。
その時の遺言が「革命いまだ成らず」です。孫文の勢力を引き継いだのが蒋介石でした。
③軍閥の台頭
袁世凱の死後、中華民国各地を軍事力で支配する勢力が現れます。これを軍閥と呼びます。
各地の軍閥は欧米や日本の支援を受けて互いに争い続けます。
結局、軍閥同士の争いは蒋介石らがすべての軍閥を従えるまで続きました。
④日本の中国進出
第一次世界大戦中、欧米列強がヨーロッパに目を向けていたころ、日本は革命後の混乱で弱体化した中華民国に二十一箇条の要求を突きつけます。
これに反対する五・四運動が起きますが日本の進出は続きました。
魯迅と辛亥革命
(1930年 魯迅 出典:Wikipedia)
魯迅(ろじん)は教科書の題材としても知られる「故郷」の著者です。
日本に留学して医学を学びましたが文学に強く惹かれていきました。
帰国後、辛亥革命で中華民国が成立しました。ところが、清王朝が滅んでも政治的争いや外国支配が続く状況に魯迅は絶望的となります。
その苦しみの中で、口語で文章を書く「白話運動」を進めました。
魯迅は作品の中で当時の中国社会を批判し、中国革命の精神的基盤をつくったといわれました。
まとめ
✔ 辛亥革命で清王朝が滅亡し、中華民国が成立。
✔ 清王朝は洋務運動・変法運動などの改革に失敗。
✔ 義和団事件の結果、清王朝の半植民地化が進んだ。
✔ 清王朝の腐敗に漢民族は怒り、孫文を中心とした革命が起きた。
✔ 孫文と取引した袁世凱が清朝最後の皇帝を退位させ、清王朝は滅亡へ。
✔ 革命後も、中国の混乱は続いた。
✔ 魯迅は中国の社会のあり方を批判した。