
天平文化とは奈良時代に盛唐文化の影響を受けて栄えた貴族文化です。
天平という名前は聖武天皇の頃の年号を取って、聖武天皇の頃に栄えた文化という意味でつけられています。
今回は天平文化とはどのような文化だったのか、特徴を代表作品を挙げながらわかりやすく解説していきます。
目次
天平文化とは?文化の特色について
(750年頃に描かれた「鑑真第6回渡海図」 出典:Wikipedia)
天平文化は、8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた文化のことです。
ここからはこの天平文化の特徴について詳しく解説していきます。
①インターナショナルな文化
天平文化の頃の世界の中心は唐でした。
唐はこの頃最も栄え、都の長安は世界最大の都市だったため、世界中の多くの人や物が集まっていました。
日本も例外ではなく、遣唐使を送って世界最先端の文化や制度を大いに学び、吸収。天平文化は国際色の色濃い文化と言えます。
奈良東大寺の正倉院では唐や朝鮮半島だけではなく、インドやヘレニズム文化の流れを汲んだ宝物が多数収められています。
(正倉院正倉 出典:Wikipedia)
そのため正倉院は「シルクロードの終着点」とも言われているほどです。
②国家的な仏教プロジェクト
奈良時代に入ると中央集権化が進みます。
それとともに朝廷の保護によって発展したのが仏教でした。
天平年間の頃の国内は災害や疫病が広まり、それによって全国に不安が広まっていました。
聖武天皇はこれらの不安を仏教の力で乗り越えようと考えました。
そこで仏の教えを学び、その教えに沿って努力すれば国の乱れは収まるという「鎮護国家思想」を軸にした国づくりを朝廷は目指すこととなります。
そのため文化面でも仏教が国内に浸透し、大いに花開いたと言えます。
「鎮護国家思想」の最も象徴的なものが奈良の東大寺とその本尊である盧舎那仏でしょう。廬舎那仏とはいわゆる奈良の大仏のことです。
(東大寺盧舎那仏像 出典:Wikipedia)
聖武天皇の努力もあって仏教そのものも大きく発展し、鑑真や行基などの僧が仏教を広めるのに貢献しました。
また、そのほかに寺院も多く建てられ、東大寺を中心に全国各地に寺院が建てられました。
特に薬師寺・大安寺・元興寺・興福寺・東大寺・西大寺・法隆寺は「南都七大寺」と呼ばれる大寺院として日本の仏教の発展に貢献しました。
さらに正式な僧侶となるための授戒を受ける戒壇院が奈良東大寺と筑紫観世音寺、下野薬師寺に作られ、それによって国内で正式な僧侶となる制度が整いました。
③文化の担い手
天平文化は朝廷による中央集権化が牽引力となって発展した、唐風の文化です。
そのためもっぱら貴族がその担い手となりました。
仏教は国分寺造立などによって全国に広まりましたが、文化としては庶民のものではなく、あくまで貴族による貴族のためのものでした。
天平文化の服装
【こちらの動画をご覧ください】
718年に定められた養老律令には衣服令というものがあり、貴族はそれに基づいた服装をすることが定められました。
大嘗祭など重要な儀式の際に着る「礼服」、貴族のいわゆる勤務服で、のちの衣冠束帯の原型となった「朝服」、特別な官位のない者が朝廷の行事の際に着る「制服」というように、場面や地位によって貴族が朝廷で着る服装について細かく規定されていました。
また生地は絹であること、鼻高沓と呼ばれる靴を履くこと、象牙製の笏を持つことというように、階級によって生地や色、さらには装飾品まで細かく決められていました。
女性の服装についても同様に細かく定められ、好きな形や色の着物を勝手に着ることはできませんでしたが、男女ともにやはり唐の影響を色濃く受けたスタイルでした。
のちの平安貴族が来ていた服装とは明らかに違い、女性の服装は「浦島太郎」の乙姫様のような服装で、色彩も華やかでした。
一方で一般庶民が着ていた服には詳細な記録がないものの、飛鳥時代までの服装と変わらず楮や藤などの天然素材で織られた貫頭衣を男女ともに着ていたとされています。
色については決まりがあり、一般庶民は男女とも黄色、家人や奴婢は黒を身につけることになっていました。
庶民は生活が厳しいことから衣服に手間をかける余裕はなかったとも言えます。
おもしろいのは、貴族庶民関わらず、この頃から着物のあわせを「左前」から「右前」に変えるように定められました。
現在「左前」というと死装束のあわせですが、それが唐の着方が「右前」であったことからそれに合わせて変えられました。
そんなところまで唐の影響を受けていたのです。
天平文化の代表作品
(本居宣長による『古事記傳』 出典:Wikipedia)
①歴史書・文学
この時代は中央集権化が進んだことから、国家の歴史や現在の様子をまとめるプロジェクトが盛んに行われたのが特徴です。
日本最古の歴史書である『古事記』『日本書紀』が編纂されたのはこの時期です。
国史を編纂することによって、朝廷が国を統治する正当性を内外に向けて主張する目的があったとみられています。
なお『古事記』は国内向け、『日本書紀』は国外向けに作られました。
歴史書のほかに、諸国の風土や歴史をまとめた地誌の編纂事業が進められました。そして完成したのが『風土記』です。
また最初の和歌集である『万葉集』では約4500首にものぼる歌が収められました。
(万葉集 出典:Wikipedia)
有名な歌人による作品も多く収められていますが、一方で防人歌や東国の人々による東歌といったごく普通の人による和歌も収められています。
身分も天皇から庶民まで幅広い人が詠んだ歌が一つの歌集に収められている点で、大変面白い歌集と言えます。
当時の貴族にとって、漢詩を作ることができるか否かは教養を示す一つの指標でした。
そういった事情もあって、最初の漢詩集である『懐風藻』が編纂されたのも天平文化です。石上宅嗣や淡海三船といった文人が優れた漢詩を残しました。
こうして後世に残る文学が生まれるようになったことから、天平文化は日本文学の始まりと言えるのです。
②教育
貴族を中心に国造りが進められたこの時代は、国家のために働く優秀な官吏を養成することが求められました。
そこで大学を中央に作り、地方は国学をおき、全国規模で官吏教育が統制されました。
貴族は「論語」や「孝経」といった経書を学ぶ明経道や書道などのほか、暦や陰陽などを学びました。
また漢詩を詠んだ石上宅嗣は芸亭(うんてい)と呼ばれる日本の図書館の起源とも言える施設を作って、貴族の学問に貢献しました。
③彫刻
それまでの仏像彫刻は金銅製や木製のものが主でしたが、この時代になると木の芯に粘土を塗り固めた塑像や、麻布を漆で塗り固めて作る乾漆像が多く作られました。
こうした作法の変化によって、より動きのある、細かい表現が可能となり、表情豊かで躍動感のある、ダイナミックな印象の仏像が生まれました。
代表的なものとしては、塑像の東大寺戒壇院四天王像や東大寺法華堂日光・月光菩薩像、乾漆像では阿修羅像で有名な興福寺八部衆像や東大寺法華堂不空羂索観音像などが挙げられます。
まとめ
✔ 天平文化とは8世紀の奈良時代に栄えた文化のこと。
✔ 唐の影響を強く受けた国際色の豊かさが特徴で、当時の人々の服装や彫刻からもその様子がうかがえる。
✔ 服装は養老律令の衣服令によって細かく規定されていた。
✔ 聖武天皇が仏教の教えにのっとった「鎮護国家思想」を目指したことから、仏教が大きく発展した。
✔ 朝廷を中心とした中央集権国家が発展した背景には、国史や地誌の編纂や、貴族への教育がさかんに行われたことが関係している。