
1945年7月。世界で連合国相手に戦っているのは日本だけになりました。
そんな日本に対して、連合国が出したポツダム宣言。
これを日本が受諾することで、第2次世界大戦が終わります。
今回は、そんな『ポツダム宣言』について内容や場所・受諾までの流れを簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
ポツダム宣言とは?
(日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン 出典:Wikipedia)
ポツダム宣言とは、1945年7月26日にアメリカ大統領、イギリス首相、中華民国主席の名で日本に対して出された、13か条からなる宣言です。正式には日本への降伏要求の最終宣言とも言います。
このポツダム宣言のポツダムとはドイツのベルリン近郊にある町の名前です。
ドイツ降伏後、アメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳がこの町に集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合いが持たれました。
その中で日本と戦争状態にあった主要三国である、アメリカ・イギリス・中華民国の共同声明として発表されました。
ただし、原案のほとんどはアメリカが作成し、イギリスの修正が若干入っただけの内容で、他の国は内容に関与していません。
ポツダム宣言の内容
13か条の内容は主に以下のようなものでした。
まずは日本に対して全日本軍の無条件降伏を要求しています。
その後に・・・
- 日本国民を欺き、過ちを起こさせた勢力を取り除くこと
- そのための新秩序ができるまでは日本国領域内は連合国に占領されること
- 日本国の主権は本州・北海道・九州・四国および連合国が決定する諸小島に限ること
- 言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重が確立されること
- 日本国民の意思による平和的政府が樹立されること
などが記載されていました。
これらは1943年のカサブランカ会談やカイロ宣言で連合国側が明確化させた姿勢を文章にしたものでした。
ポツダム宣言受諾までの流れ
(降伏文書調印式の様子 出典:Wikipedia)
①日本は「黙殺」
時差の関係もあり、日本に伝わったのは翌日の27日でした。
外務大臣の東郷茂徳はこれを拒否すると重大な結果を生む、しかしまだ交渉の余地はあるので今は黙っていたほうが賢明だろうと考えました。
(東郷茂徳 出典:Wikipedia)
一方陸海軍は反発します。いずれ国民にも伝わるので先に断固抵抗する旨発表するべきだと主張したのです。
結局政府としては東郷の意見を採用し、内容については公式発言を控える、ということで閣議決定しました。
翌日、改めて陸軍から政府が宣言を無視することを正式に表明すべきと強固な要求を受けたこともあり、鈴木貫太郎首相は記者会見を開きます。
(鈴木貫太郎内閣 出典:Wikipedia)
そこで鈴木首相は「ノーコメント」という意味合いで「黙殺」という表現を使いました。
この言葉を日本の通信社は外国向けに「ignore(無視する)」と訳して伝えましたが、海外の新聞では「reject(拒否)」と伝わってしまいました。
②アメリカの対応
アメリカの大統領はルーズベルトが急死したため、トルーマンが就任していました。
(ハリー・S・トルーマン 出典:Wikipedia)
トルーマンは日本がポツダム宣言を最初は拒絶してくることは折り込み済みでした。
むしろポツダム宣言の拒否によって、日本への原爆投下を正当化しようと考えていたのです。
そして、ポツダム宣言と核攻撃を組み合わせることで日本を降伏させようと考えていました。
③原爆投下とソ連の参戦
1945年8月6日、世界で最初の原子爆弾が広島に投下されました。そして、3日後の8月9日には長崎へ2つ目となる原爆が投下されました。
一発の爆弾で広島・長崎は甚大な被害を受けることになります。
また、9日未明にソ連軍が日ソ中立条約を破り、国境を突破。満州や朝鮮北部・千島列島になだれ込みます。同時にソ連もポツダム宣言に参加しました。
打つ手のなくなった鈴木首相は最高戦争指導会議で「ポツダム宣言受諾やむなし」の方針を出します。
またその会議中に長崎へ二発目の原爆が投下されたことが報告されます。
一人、陸軍大臣の阿南惟幾のみが戦争継続を主張しますが、「国体護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦争裁判への参加」を条件に宣言を受諾する方針が優勢となりました。
(阿南 惟幾 出典:Wikipedia)
④ポツダム宣言の受諾、そして終戦へ
宣言を受諾する、ということでは閣内は一致したものの、受諾の際にどういう条件をつけるか、ということがまとまりませんでした。
すなわち、「天皇の地位存続のみを条件」とする外務大臣案とそれに「日本軍の自発的な撤退と内地における武装解除」「戦争責任者の日本による処断」「保障占領の拒否」の3点を加える陸軍大臣案の二つに意見がわかれたのです。
10日未明の昭和天皇臨席の御前会議でもまとまらず、やむをえず鈴木首相は天皇の判断を仰ぐことにしました。いわゆる「ご聖断」です。
(昭和天皇 出典:Wikipedia)
昭和天皇は外務大臣案を採用すると表明します。もはや勝ち目がないこと、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、国民や世界の人々を救うためにはこれしかない、というのが理由でした。
その結果「天皇統治の大権を変更しない」という了解のもとポツダム宣言を受諾することが中立国であるスイスとスウェーデンに向けて送信されました。
アメリカ側はこれを受け12日、「天皇及び日本政府の国家統治権は連合国軍最高司令官にsubject toする」という返答をします。
日本はこのsubject toを「制限の下におかれる」と捉えた外務省と、「隷属する」と捉えた軍部の間で対立。軍部強硬派は国体護持について再照会を主張します。
やがて駐スウェーデン公使から、アメリカの回答は日本の申し入れを受け入れたもの、という報告が届き、14日ようやく政府は宣言受諾を決定。同日、終戦の詔勅も発せられました。
翌15日、政府は国民に向け、ポツダム宣言の受諾と降伏決定を発表。昭和天皇が直接国民に語りかけるという形が取られます。
戦前は天皇陛下の声が国民に放送されるというのは異例のことでした。
これが玉音放送です。
この玉音放送の前に陸軍の一部がクーデターを起こす計画がありましたが、未遂で終わりました。
9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ上で降伏文書が調印され、第2次世界大戦は終結しました。
ポツダム宣言を巡る問題
(降伏文書調印式の様子 出典:Wikipedia)
①無条件降伏なのか
日本の降伏が「無条件降伏」だったのか、ということには論争があります。
ポツダム宣言の内容そのものが「条件」を含んでいるので無条件降伏ではない、という考え方です。
ポツダム宣言の中にも無条件降伏の文言が見られますが、これは軍隊に対するものであって国家に対するものではありません。
そもそもカサブランカ会談やカイロ宣言のときに無条件降伏を提唱したのはルーズベルトであり、その後アメリカの大統領になったトルーマンと同じ「無条件降伏」でも考え方が違っていたからということがあげられます。
②領土問題
ポツダム宣言で規定された日本の領土については、外交問題や領土問題として今日まで残っているものもあります。
北方領土や尖閣諸島などがそれに当たります。
特にソ連・ロシアとの北方領土問題は、江戸時代に調印した条約を根拠にする日本と、ヤルタ会談・ポツダム宣言を根拠にするロシアとの間で、議論が平行線になっています。
現在でも戦争状態の終結は宣言されているものの、日本とロシアとの間には平和条約が締結されていない状態のままです。
まとめ
✔ ポツダム宣言とは連合国の日本に対する降伏勧告宣言のこと。
✔ それを受諾するまで日本政府は意見の統一に苦心した。
✔ 最終的に昭和天皇による「ご聖断」と「玉音放送」で日本はポツダム宣言を受諾した。
✔ ポツダム宣言は現在まで残る領土問題の一因にもなった。