今の時代、土地代をちゃんと支払えば固定資産税というものはありつつも自分のものにすることができます。

 

しかし、1400年前の飛鳥・奈良時代では日本の土地は全て天皇の土地となっていました。

 

今回はそんな日本が全部天皇のものだった『公地公民』についてわかりやすく解説していきます。

 

公地公民とは?

 

 

公地公民とは、飛鳥時代と奈良時代の頃の日本の全ての土地と日本国民全員が天皇のものだった時代のことです。

 

名前を見ると公(天皇)が全ての土地と全ての民を持つと読むことができ、その名の通りのことが行われていました。

 

公地公民制度が出来上がるまで

①豪族の支配下だった頃

昔、日本では弥生時代と呼ばれる時代に稲作が伝来。日本にいた人たちはマンモスを追いかけることをやめて稲作のために土地をずっと変えずに住む定住化をするようになりました。

 

しかし定住化すると必ず起こってしまうのが土地の争い

 

この争いが行われていく中で強いものがどんどん土地を増やしていき、古墳時代になるには豪族と呼ばれる有力な支配者となっていきました。

 

その中でも特に力を持ったのが今の天皇につながるヤマト朝廷

 

このヤマト朝廷は周辺の豪族と協力しながら政治をしていくようになり、そして飛鳥時代に入るとヤマト朝廷の力は全国に拡大しながらも、各地では豪族達が自分の土地を持っている状態になりました。

 

以上のような感じで古代の日本ではヤマト朝廷というものが存在しながらも豪族もそれと同じぐらいの権力を持ち、さらに広大な土地も持っていたのです。

 

②全ての土地を天皇のものに!大化の改新と天皇家の野望

こうして日本では豪族が幅を利かせていくようになりましたが、645年にこれまで特に天皇様よりも遥かにしのぐ権力を持っていた蘇我家の当主蘇我入鹿がなんと当時の皇太子である中大兄皇子に暗殺されてしまいます。(乙巳の変

 

 

この乙巳の変とも呼ばれる暗殺によって蘇我家はあっという間に滅亡してしまい、朝廷では大化の改新と呼ばれる政治改革が行われるようになったのでした。

 

 

中大兄皇子は当時お隣で強大な力を持っていた隋が日本を狙っているのではないかと踏んでおり、そのためには天皇家中心の中央集権国家を建設して隋に対抗しなければいけないと思っていました。

 

中大兄皇子はその後天智天皇として即位してからもその思いは辞めず、663年に白村江の戦いで敗戦するとさらに中央集権国家の建設に拍車をかけるようになっていきます。

 

極め付けには天智天皇の死後に起こった壬申の乱の時に天皇に反抗していた豪族達を大海人皇子が討伐。ギャーギャーうるさかった人たちをまとめて潰すことに成功して、ついに朝廷は公地公民制を導入することができるようになったのでした。

 

公地公民の仕組み

①戸籍の作成

公地公民には天皇が土地の管理や国民の数をちゃんと把握することが必須です。

 

その中でも国民の人数をまとめた戸籍を作ることは公地公民制度を整えるのには必要不可欠なものでした。

 

そんなことで作られたのが、670年日本で初めての戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)でした。

 

今でこそ当たり前の戸籍ですが、昔だったら画期的なことだったのですね。

 

さらに12年後の692年には庚寅年籍が作成され、これ以降6年おきに戸籍が更新されるなど公地公民の公民部分を整えていきました。

 

②土地の管理

公地公民の公民を整えたのなら次に整えるべきなのは公地公民の公地の部分です。

 

そこで整えられたのが班田収授制でした。

 

班田収授とは簡単に言えば、天皇(国家)が国民に対して土地を貸してあげてその土地で取れたお米を租という税金にして徴収することです。

 

要するに「土地を貸してあげてるんだから年貢をきっちり納めろ」ということですね。

 

このことは戸籍をちゃんと作成したからできることであってこれによって6歳以上の国民が口分田という形で土地を借り、それを使って国に対して税を納めていたのです。

 

こうして日本は天皇中心とした公地公民制が確立。のちに作られる大宝律令も相まってどんどん中央集権国家が作られていきました。

 

 

公地公民をやったメリットとデメリット

①公地公民のメリット

公地公民を実現したことは朝廷からしたら毎年戸籍に載っている6歳以上の国民からきっちりと税が収められるようになり、天皇や国家の財政は安定するようになります。

 

奈良時代に入ると朝廷は度重なる遷都や東大寺の大仏殿の建築など国家プロジェクトをたくさん行なっていくのですが、それが実現したのはまさしく公地公民によって財政が安定したことによるものだったと思います。

 

②公地公民のデメリット

公地公民によって朝廷は潤ったかもしれませんが、一般の国民からすればこのことは悪夢以外の何者でもないものでした。

 

まず、公地公民制の場合だと自分の土地がない上に持つことができません。

 

だって日本の土地は全て天皇のものであり、自分が持っている土地はあくまでも天皇から貸し与えられている土地だったのです。

 

そのため国民達は田んぼを耕しながらふと「俺たちって何のために働いているんだろう?」と疑問に思う人たちが現れるようになり、挙げ句の果てには口分田から取れたお米をとして納めることをせず、戸籍を偽造して逃げ出す人も現れる始末でした。

 

こうなると国民はもちろん、国家としてもこのデメリットの問題をなんとかしなければいけないようになり、これが公地公民の崩壊につながっていくのです。

 

公地公民の崩壊「墾田永年私財法の制定」

(聖武天皇像 出典:Wikipedia

 

 

奈良時代中期に入ると当時の天皇であった聖武天皇は国民が逃げ出して税を取ることが難しくなったことに頭を悩ませるようになります。

 

税がなかったら国家運営は出来ませんし、当時聖武天皇が行っていた国家プロジェクトも止まってしまいます。

 

そこで知恵を絞った聖武天皇はとある一つの政令発布します。

 

それが墾田永年私財法の前段階である『三世一身法』でした。

 

この政令によって国民は自分から孫の代まで土地の保有を国から認められるようになり、自由に土地を保有することが可能となりました。

 

しかし、国民は「どうせ孫の代になったら返さなければいけないからやらない」というふうに考え全く効果なし。これに困った聖武天皇はついに開墾した土地を全て自分のものにできる政令『墾田永年私財法』の発布に踏み切ってしまいました。

 

これによって大宝律令ころ以来の公地公民の制度は崩壊してしまいました。

 

そして時代は貴族や僧侶たち土地を所有できるようになる荘園制の時代に突入していくことになったのでした。

 

 

まとめ

 公地公民とはすべての国民とすべての土地を天皇のものにしたこと。

 古墳時代までは各地の豪族達が土地を所有していたが、乙巳の変で蘇我氏が滅亡し、大化の改新に突入すると公地公民化が進んだ。

 公地公民に大切なことは国民の人数をちゃんと把握する戸籍と班田収授制による土地の管理。

 公地公民制によって国民は畑を耕すやる気がなくなり、戸籍を偽造して逃亡する事態も起こり始めた。

 聖武天皇が墾田永年私財法を発布すると公地公民制が崩壊して新しく貴族や僧侶が土地を所有する荘園制が始まった。




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