欧米諸国がアジアに進出し始めた18世紀後半から19世紀。

 

一部の国とだけ貿易をしていた鎖国下の日本の近海にも外国船がたびたび現れるようになりました。

 

そんな時期に起こったのがフェートン号事件です。

 

今回は、東アジアに市場を求める欧米諸国が日本に接近を始めた象徴的事件であり、異国船打払令のきっかけともなった『フェートン号事件』についてわかりやすく解説していきます。

 

フェートン号事件とは

(フェートン号 出典:Wikipedia

 

 

フェートン号事件とは、第11代徳川家斉(いえなり)が天下を治めていた1808年(文化5年)に起こりました。

 

オランダ商館のあった長崎港内に、当時オランダと敵対関係のイギリス軍艦フェートン号が不法に侵入。その後オランダ商館員を人質にし、薪や水、食料を要求した事件のことです。

 

このフェートン号事件がひとつのきっかけとなり、江戸幕府は1825年に異国船打払令を出すことになります。

 

フェートン号事件の背景・目的

(鎖国政策 長崎の出島 出典:Wikipedia

①外国船の来航

フェートン号事件が起きた頃の日本は、長崎でオランダと中国(清国)、対馬で朝鮮、薩摩で琉球王国、蝦夷でアイヌと限られたエリアで限られた国と貿易を行っていました。

 

いわゆる鎖国中でした。

 

しかし、18世紀末から19世紀にかけ、市場や植民地を拡大したいイギリス、冬でも凍らない“不凍港”を求めて南下するロシア、さらには捕鯨船の寄港地、中国との貿易の中継地が欲しいアメリカなどの外国船が日本近海に姿を見せるようになりました。

 

まず、先陣を切ってやってきたのはロシア。

 

1792年エカチェリーナ2世の使節としてラクスマンが根室に、1804年レクサンドル1世の使節としてレザノフが長崎を訪れ、通商を要求しました。

 

しかし、幕府は鎖国を理由にこの要求を拒否しました。

 

続いてやってきたのが、1808年イギリスの軍艦フェートン号です。

 

ロシアのように日本に通商を要求するのが目的ではなく、長崎で日本と貿易をしていたオランダが“ねらい”でした。

 

②イギリスとフランスの対立

(ナポレオンのロシアからの撤退 出典:Wikipedia

 

 

当時、ヨーロッパ諸国の中で唯一日本と貿易を行っていたオランダは、フランスのナポレオン戦争(1796年~1815年)により、フランスの属国となっていました。

 

一方、18世紀後半からの産業革命で世界の大国に成長したイギリスは、フランスと対立。東アジアにおけるオランダの商業拠点を攻撃し、東アジア貿易の独占を目論んでいました。

 

③フェートン号事件の目的

この東アジア貿易の独占を目論むイギリスとフランスの対立に、日本が巻き込まれる形で起こったのがフェートン号事件です。

 

イギリスは東アジアのオランダの商業拠点に軍艦を派遣し、オランダ船の捕獲を行っており、それは長崎のオランダ商館も例外ではありませんでした。

 

つまり、フェートン号事件の目的は長崎港に停泊中のオランダ船を捕獲することでした。

 

フェートン号事件の内容

①オランダ船の“フリ”して侵入

1808年8月15日、イギリスの軍艦フェートン号はオランダ国旗を掲げ、オランダ船の“フリ”をして長崎港に侵入します。

 

イギリスは目論み通り、オランダ船と勘違いして出迎えにやってきたオランダ商館員2名を人質にとりました。

 

②長崎警護の手薄さが露呈

(文久遣欧使節の主要メンバー 松平 康英(一番左) 出典:Wikipedia

 

 

長崎奉行だった松平康英(やすひで)は人質を救出するため、実力行使によるフェートン号の焼き討ちを計画します。

 

しかし、長崎警護を任されていた佐賀藩(鍋島藩)は、太平の世に慣れ、守備兵の数を規定よりも大幅に減らしていたため、32門の大砲を備えたイギリス軍艦に対応できる軍備を整えることができませんでした。

 

結局、幕府とオランダ商館はイギリスの要求を受け入れ、人質を解放する代わりに食糧・水・燃料を提供。フェートン号は17日に長崎港を後にしました。

 

このフェートン号事件は、太平の世に慣れ“平和ボケ”した江戸幕府の軍備の弱さを露呈することになりました。

 

③事件の責任は長崎奉行と佐賀藩へ

事件後、職務に忠実で責任感の強かった長崎奉行の松平康英は“わが国を辱めてしまった”と自分を責め、自害してしまいます。

 

また、守備兵の数を勝手に減らしていた佐賀藩(鍋島藩)は、9代藩主の鍋島斉直が幕府から100日間の閉門に処されたほか、家老の中には責任を取って切腹したものもいました。

 

フェートン号事件の影響・結果

①イギリス船が日本に次々と来航

フェートン号事件後、イギリス船は次々と日本に来港することになります。

 

1818年には、イギリス海軍将校ゴルドンが浦賀に来航し通商を要求しました。

 

1824年5月には、水戸の大津浜にイギリス人12人が勝手に上陸、同年8月には薩摩の国宝島にイギリスの捕鯨船が食糧調達のため勝手に上陸しました。

 

②幕府は異国船打払令を発令

フェートン号事件や度重なるイギリス船の勝手な振る舞いに、幕府の外国に対する警戒心は高まり、ついに幕府は、1825年異国船打払令を発令します。

 

これは、外国船をみたら即刻打払え!という強硬なもので、異国船打払令は別名、無二念打払令(無二念=躊躇なく)とも呼ばれています。

 

もちろん、例外はあり、日本と貿易をしていた中国(清)・朝鮮・琉球船は対象外でしたが、オランダ船だけは長崎以外では打ち払うことになっていました。

 

 

③アメリカのモリソン号事件

強硬な異国船打払令の初の犠牲となったのがアメリカの商船モリソン号です。

 

1837年、漂流してマカオに流されていた日本の漁師7名を送り届けるため江戸湾に入ったモリソン号を異国船打払令に基づき浦賀奉行所が砲撃。その後、薩摩の山川でも薩摩藩が砲撃した事件です。

 

このモリソン号事件は、フェートン号事件と間違えやすいので注意しましょう。

 

 

④佐賀藩の再建

フェートン号事件をきっかけに佐賀藩では、鍋島斉直の次の藩主、10代藩主鍋島直正が藩政を改革し、財政を再建しました。

 

佐賀藩領に砲台を造り、大砲の大量生産を行うなど海からの攻撃に対する海防を充実させ、明治維新の原動力となりました。

 

 

フェートン号事件の語呂合わせ

 

 

フェートン号事件の年号は・・・

 

オランダの人は追わ(1808)れるフェートン号

 

と覚えましょう。

 

また、フェートン号事件の起きた1808年は間宮林蔵樺太探検に出発した年でもあります。間宮は樺太が島であることを発見しました。

 

まとめ

 フェートン号事件はイギリスの軍艦がオランダ商船を捕獲しようと長崎港に不法に侵入した事件。

 フェートン号事件は江戸幕府が1825年異国船打払令を発令するひとつのきっかけとなった。

 フェートン号事件によって長崎警護にあたっていた佐賀藩が処罰された。

 年号の覚え方は、オランダの人は追わ1808)れるフェートン号。




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